江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

詩書画をよくした篆刻家・細川林谷とその周辺

細川林谷「林谷山人紀遊漫画」

細川林谷(1780-1843)は、讃岐国寒川町に生まれ、幼いころから阿部良山に篆刻を学んだ。その篆刻は「正雅典則一世に鳴る人皆宇内第一」と称され、頼山陽篠崎小竹田能村竹田らが口を極めて賞賛したとされる。また、詩書画をよくし、山水、墨竹を得意とした。旅を好み、30歳前後のころには西遊し、下関から長崎にまで至っている。のちに江戸に出てその技をふるい、この頃に頼山陽らと親交を結んだとされる。子の林斎も江戸で篆刻および画をよくした。高松藩の印刻師をつとめた山本竹雲も林谷に学んだとされる。

細川林谷(1780-1843)ほそかわ・りんこく
安永9年寒川郡石田村字森弘生まれ。名は潔、字は痩仙・氷壷、通称は春平、のちに俊平といった。別号に、林道人、白髪小兒、有竹、三生翁、天然画仙、不可刻齊、忍冬庵などがある。本姓は、もと廣瀬氏であり廣瀬林谷と記されることもある。篆刻を阿部良山に学び、のちに一家を成した。旅を好み、30歳前後のころには西遊し、のちに江戸に出ている。天保2年に一度讃岐に帰郷したが、再び江戸に戻り、天保14年下谷練塀町の寓居において、65歳で死去した。

阿部良山(1773-1821)あべ・りょうざん
安永2年生まれ。木田郡六條村の人。名は世良、字は良年。良山堂と号した。篆刻家で、詩書画もよくし、墨竹を得意とした。細川林谷の師として知られる。文政4年、49歳で死去した。

阿部絹洲(1793-1862)あべ・けんしゅう
寛政5年生まれ。大坂の人。阿部良山の長男。名は温、字は伯玉、または玉清、通称は信次郎、のちに良平。別号に介庵がある。篆刻のほか詩画もよくし、墨竹を得意とした。文久2年、70歳で死去した。

阿部鹿城(不明-不明)あべ・かじょう
阿部絹洲の二男。山水をよくした。

山本竹雲「胡蝶図巻」(部分)

山本竹雲(1826-1894)やまもと・ちくうん
文政9年生まれ。備前味野の人。茶人・篆刻家として知られる。名は戈、字は中立。20歳のころに味野を出て、弘化2年に高松に転居して高松藩の印刻師をつとめた。篆刻は細川林谷に学んだとされる。余技として画をよくした。京都、大阪など各地を流浪したが、高松を第二の故郷としてしばしば訪れ、山田梅村らと交友した。明治27年、69歳で死去した。

香川(12)画人伝・INDEX

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展