江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

石川県の初期洋画壇に大きな足跡を残した佐々木三六

佐々木三六「教室」

福井市に生まれた佐々木三六(1860-1928)は、父親の転勤に伴い上京し、その後、語学修得のためイタリアに留学し、トリノ府皇国美術学校で図画と油絵を学んだ。帰国後は内務省勤務などを経て第一高等中学校の図画教師となり、その間、日本初の洋画団体「明治美術会」創設の発起人となり第1回展と第5回展に出品、図画教科書「中学習画帖」の編纂などにも携わった。

明治30年からは石川県尋常中学校の図画教師となり、石川県師範学校の教師も兼務した。石川県尋常中学校は、その後石川県第一中学校、石川県金沢第一中学校と改称されるが、同校での佐々木の勤務は15年に及び、その間、生徒たちと洋画サークルを作り、布目敏行、伊東哲、遠田運雄といった大正から昭和初期にかけての石川洋画壇で活躍する洋画家を育てた。

佐々木と同様に福井市出身の高橋確次郎(1868-不明)は、昭和20年から24年にかけて金沢の第四高等中学校の図画教師として赴任し、石川の初期洋画形成に大きな役割を果たし、その後も仙台や三重で図画教師をつとめ、美術教育に大きな足跡を残した。

また、松任に生まれた得田耕(1857-1932)は、上京して本多錦吉郎の彰技堂に学んだのち帰郷し、石川県内の師範学校や専門学校、第四高等中学校などで図画教師をつとめた。

佐々木三六(1860-1928)ささき・さんろく
万延元年福井市神明前神楽町生まれ。雅号は長江。明治4年父の勤務に伴い上京。明治8年父の勧めにより語学習得のためイタリアに留学。トリノ府皇国美術学校で図画と油絵を学び、明治14年同校を卒業し帰国、内務省に勤務した。明治18年東京大学理学部画工準判任御用掛となり、明治21年第一高等中学校教諭となった。明治22年明治美術会創立発起人となった。明治27年図画教科書「中学習画帖」を発行。明治30年石川県尋常中学校に赴任。明治32年から石川県師範学校教諭も兼務した。金城画壇展に出品し、石川県洋画壇に大きな影響を与えた。昭和3年、67歳で死去した。

高橋確次郎(1868-不明)たかはし・かくじろう
明治元年福井市勝見生まれ。本名は佐野常成。浜田常成、佐野確次郎とも称した。明治12年東京本郷の独逸学校でドイツ学、漢学などを学び、翌年築地大学校で瑛学などを学んだ。さらに同年洋画家の川村清雄について鉛筆画、油彩画、水彩画などを学んだ。英国人ウォーレスにも学んだとされる。明治19年から油彩による肖像画家となった。明治22年明治美術会の発足に際し会員となった。明治20年から24年にかけて金沢の第四高等学校、明治25年から26年頃まで仙台の第二高等学校の図画教師として勤務。明治32年から大正初年頃まで三重県第四中学の図画教師をつとめた。

得田耕(1857-1932)とくだ・たがえす
安政4年現在の松任生まれ。明治11年石川県師範学校卒業。上京して彰技堂に入門、本多錦吉郎について洋画を学んだ。明治15年帰郷し金沢・輪島などで教鞭をとり、早田楽斎に洋画をすすめた。明治22年明治美術会創立の発起人となった。晩年は金沢市備中町のアトリエで南画や仏画を描いた。昭和7年、75歳で死去した。

石川(40)-画人伝・INDEX

文献:金沢市史資料編16(美術工芸)、石川の美術-明治・大正・昭和の歩み、福井の明治美術

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