江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

讃岐の書聖・後藤漆谷とその周辺

讃岐の歴史の中で「書聖」と称された人物が二人いる。一人は空海であり、もう一人は後藤漆谷(1749-1831)である。漆谷は高松の豪商の家に生まれ、幼いころから学問を好み、深井鶏林、後藤芝山に師事、20歳を過ぎるころには芝山門下の逸材と賞賛されるようになった。漆谷の書は王羲之の正統を継ぎ、元・明の書法を加えて優美であり、名前は全国に知られ、同年代の画人・長町竹石と並び、讃岐文人の双璧と謳われた。人柄は温厚、謙虚で、彼の周りには常に多くの人が集まり、早くから讃岐の風流人の中枢として活躍した。

交流のあった文人としては、大坂の木村蒹葭堂、備後の頼山陽、菅茶山、讃岐人で江戸で活躍した菊池五山をはじめ、細川林谷、皆川淇園らがいる。還暦を過ぎると家業を子の弘基に譲り、老松園を居として悠々自適の生活を送った。それとともに漆谷を慕って訪れる人が益々多くなり、老松園は風雅の道の一大拠点となったという。墓碑銘には山田鹿庭、梶原藍渠、長町竹石、手塚鹿渓、久家暢斎の名があり、他にも芝山門の先輩・柴野栗山、志度の清僧・竹林上人、浄願寺住職・秀峰、素封家・揚分潮らとの交流があった。

漆谷の門人で讃岐の画人としては江口春帆が『讃岐画家人物誌』に掲載されており、春帆と交友した画人としては、山田梅村、向井舟皐らの名がある。

後藤漆谷(1749-1831)ごとう・しっこく
寛延2年生まれ。名は苟簡、字は子易または田夫。通称は勘四郎。はじめ木齋と号し、のちに漆谷とした。高松の豪商・後藤保里の末子。幼くして深井鶏林、後藤芝山に師事した。詩文や書にすぐれ、早くから讃岐の風流人の中枢にあって活躍した。還暦後は、老松園に住み、文人たちと交わり悠々自適の生活を送った。天保2年、83歳で死去した。

大原東野(1771-1840)おおはら・とうや
明和8年生まれ。名は民聲、字は子楽。大和国奈良の人。浪華に住み、のちに琴平に来て藤棚に住んだ。山水、花鳥、人物と巧みで、特に人物画を得意とし多くの門人がいた。著書に『名数画譜』がある。大原東野が描き、牧野黙庵が賛した「玉蘭精舎祝宴図屏風」は高松市の有形文化財に指定されており、高松藩に儒官として仕えた久家暢斎主催の玉蘭社と称する私塾に集まった文人の会合の様子を描き、後藤漆谷はじめ讃岐における多くの文人の会合を伝えている。天保11年、70歳で死去した。

揚分潮(1765頃-1835)あげ・ぶんちょう
明和2年頃生まれ。名は元徴、字は献卿、通称は文平。別号に分橋などがある。山田郡古高松村の人。祖先は阿波から讃岐に移り、久保氏を称した。途中、上野氏に改めるが、分潮の時代になって揚氏とした。分潮は若いころ京都などに出て、柴野栗山、皆川淇園らと交流した。書画をよくした。天保6年、71歳で死去した。

江口春帆(1814-1873)えぐち・しゅんぱん
文化11年生まれ。名は洵直、字は仲候、通称は八十郎。高松藩の国史編集館員。後藤漆谷に書法を受けた。画学の書籍を研究し、画徴録、芥子園画伝注釈集などを著した。兒島竹處、山田梅村、向井舟皐らと交友した。明治6年、60歳で死去した。

山田梅村(1816-1881)やまだ・ばいそん
文化13年生まれ。名は亥吉、字は乙生、通称は勝次。鹿庭の子。別号に小田園、薔薇園、鉄馬山房などがある。高松藩の儒員。経学詩文で名高く、鉄筆にすぐれ、画は山水、蘭竹をよくした。明治14年、66歳で死去した。

向井舟皐(1820頃-1892)むかい・しゅうこう
文政3年頃生まれ。香川郡浅野の人。名は根賢、字は子才、通称は又八郎。文人趣味を持ち、画をはじめ上杉墨水、宮内梧皐に学び、のちに明清の妙蹟を倣い、清澄高雅な山水を描いた。山田梅村、兒島竹處、江口春帆、村尾篁山らと交友した。また、浅野焼(舟岡焼)を興した。明治25年、73歳で死去した。

香川(11)画人伝・INDEX

文献:後藤漆谷の書跡とその周辺讃岐画家人物誌