江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

高松藩の狩野派、元祖・狩野常眞と高松藩御用絵師の系譜

狩野常眞「叭々鳥図」

江戸時代は幕府の御用絵師に狩野派が登用されていたため、全国的に狩野派の絵師を召し抱える藩が多く、高松藩においても二代藩主松平頼常の頃、もしくは初代頼重の終わり頃に、狩野派の絵師・狩野常眞(不明-1697)が藩絵師として召し抱えられたとされる。狩野常眞は江戸の中橋狩野家八代・狩野安信に学んでおり、高松藩における狩野派の元祖となった。以後、常眞の長子・永嘉、二子・常慶が後を継いで藩絵師となったと伝えられる。しかし、その後の子孫による世襲はなかったと思われ、跡は途絶えたようである。常慶の跡を継ぐべき義信が、中橋狩野家十一代狩野英信の門人になったためと考えられる。

狩野常眞に始まる画系が常慶で途絶えたため、宝永元年、三代藩主松平頼豊の時に、狩野紹伯が藩絵師に招かれた。紹伯がどこから来たのか画歴については不明だが、以後、高松藩においては、紹伯の子孫が狩野派の伝統を守り、榮仙、喜祖、允廸、明善、厚信、永笑と、幕末まで藩絵師として活躍した。なかでも弘化4年に藩絵師となった狩野永笑は、松平頼該の師役となるほか、多くの門弟を育てた。江戸時代を通して続いた高松藩の狩野派だが、現在残っている作品は少ない。

狩野常眞(不明-1697)かのう・じょうしん
上野国の人。画を中橋狩野家八代・狩野安信に学び、法橋集信と称した。高松藩に抱えられて絵師となった。高松藩における狩野家の元祖とされる。元禄10年死去した。

狩野厚信(不明-1832)
名ははじめ秋成 のちに厚信。本姓は今西。高松藩絵師・狩野明善の養子となり、高松藩絵師となった。天保3年死去した。

狩野永笑(1819頃-1888)かのう・えいしょう
文政2年頃生まれ。高松藩絵師、狩野厚信の子。名は親信。別号に綾川がある。藩主一族・松平左近の師となった。明治21年死去した。

玉井桃溪(1840頃-1880)たまい・とうけい
天保11年頃生まれ。名は千代。玉井信成の二女。狩野永笑に師事し花卉鳥虫を描いた。明治13年、41歳で死去した。

香川(1)画人伝・INDEX

文献:描かれし美の世界、高松市歴史資料館コレクション展