田口森蔭とともに二代喜多川歌麿に学んだとされる長嶺清麿(1789-1853)は、森蔭より4歳年長で、森蔭が起こした落首事件の際には、「奇妙騒動飲」という薬の効能書きをもって、森蔭とともに歩調を合わせて藩政批判をした。また、松尾神社祭礼の「裸参り」の件に関しても共同行為をしている。森蔭と同様に盛岡藩士で、代官所下役や御作事奉行などを歴任しているが、酒の密売と職務怠慢を理由に2度も解任されている。
作品としては、盛岡藩の沿岸の詳細を描いた「海嶺絵図」や、「娘道成寺板絵」(盛岡市金毘羅神社蔵)、「富士越龍図」(岩手県立博物館蔵)があり、山蔭焼の銚子に草花を絵付けしたものも残っている。遊女の町・津志田の中心にあった大国神社には、文人墨客や遊女による献額が多く残っているが、石川林泉らのものとともに清麿の作もあることが知られている。
長嶺清麿(1789-1853)ながみね・きよまろ
寛政1年生まれ。通称は九郎八、九郎右衛門といい、将続、精之と名乗った。別号に梅林舎がある。文政8年から4年間鬼柳黒沢尻通代官所下役、文政13年から4年間安俵高木通代官所下役をつとめ、天保4年には御作事奉行となり、盛岡城本丸大奥の普請を担当した。田口森蔭とともに二代喜多川歌麿に絵を学んだとされる。安俵高木通代官所下役の在職中の天保3年野辺地へ、目付所御物書加に在職中の弘化2年に五戸から田名部まで出張し、弘化2年の出張では、盛岡藩の沿岸の詳細を描いた「海嶺絵図」を作成、弘化4年に褒美を得ている。天保9年酒の密売で、天保14年には勤務態度が悪いとして、2度も役職を解任されている。俳諧をたしなみ、自筆の句帳が残っている。嘉永6年、65歳で死去した。
岩手(14)-画人伝・INDEX
文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、藩政時代岩手画人録