飛騨高山に生まれた垣内右嶙(1825-1891)は、京都に出て四条派の岡本豊彦、塩川文麟に学び、さらに南画の要素を加味して独自の画風を展開した。明治12年に金沢を訪れ、画塾を開いて多くの門弟を育て、この時代の石川県の日本画の振興に大きな役割を果たした。
その子・雲嶙(1845-1919)も、父の亡きあと画塾を受け継いで、後進の育成にあたり、石川画壇に大きな足跡を残した。門下からは、梶野玄山、高村右暁、玉井紅嶙(1874-1933)など、明治末期から大正、昭和にかけて石川県の日本画界の中心となって活躍する画家が出ている。
参考記事:京都画壇で学んだ飛騨の日本画家
垣内右嶙(1825-1891)かいと・ゆうりん
文政8年飛騨高山生まれ。名は直道。生家は浅井家で、のちに妻の実家代情家の別家・小屋垣内を継ぎ、垣内と名乗った。画家を志して京都に上り、四条派の岡本豊彦を訪ね、その門人である塩川文麟の門下生となり「右嶙」の号を受けた。弘化2年頃帰郷し、高山陣屋御用絵師の待遇を受けたが、嘉永4年再び京都に上り、岩倉具視に召し抱えられた。その縁で大田垣蓮月、富岡鉄斎ら勤王の志士と親交を結び、維新にも関わりをもったという。明治4年頃に高山に帰ったが、明治12年金沢に移り制作活動を行なう一方、画塾を開き多くの門弟を育てた。明治24年、67歳で死去した。
垣内雲嶙(1845-1919)かいと・うんりん
弘化2年飛騨高山生まれ。垣内右嶙の長子。名は微(徽とも)。幼いころから父に画を学び、慶応3年、22歳の時に京都に上り、父の師でもあった塩川文麟に師事した。明治4年高山に帰ったが、その後画業研鑽のために諸国を遊歴した。明治15年第1回絵画共進会で入賞。明治17年京都府画学校の教官となった。明治19年石川県絵画品評会審査員となり、明治24年の父の急逝により画塾を引き継ぐために金沢を訪れ、明治34年に京都に戻るまで門下の指導にあたった。大正8年、75歳で死去した。
玉井紅嶙(1874-1933)たまい・こうりん
明治7年金沢市長町生まれ。本名は寛次。生家は紅屋という染物屋で、実弟に画家で郷土史家の玉井敬泉がいる。垣内雲嶙に師事して四条派を学んだ。明治30年代に数々の絵画品評会、共進会で受賞し、明治30年創設の北陸絵画共進会では幹事会計をつとめた。大正13年に結成された金城画壇に参加し、昭和4年には幹事をつとめるなど石川の日本画界興隆に寄与した。昭和8年、58歳で死去した。
石川(15)-画人伝・INDEX
文献:石川の美術-明治・大正・昭和の歩み、燦めきの日本画-石崎光瑤と京都の画家たち、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成