加賀藩の御用を受けた絵師としては、幕府の御用絵師・狩野探幽がたびたび三代藩主・前田利常に絵の依頼をされており、その門下である久隅守景も一時期金沢に滞在して多くの作品を描いている。
また、五代藩主・前田綱紀の治世に、江戸の神田松永町狩野家の祖・狩野友益が加賀藩に仕え、その長男で神田松永町狩野家を継いだ狩野伯円と、第四子で分家して芝愛宕下狩野家を興した狩野即誉も加賀藩に仕え、その両系統の絵師たちが江戸と加賀の両方で御用を受けるとともに、地元金沢の狩野派を指導し、その関係は幕末まで続いた。
金沢の狩野派としては、梅田家の歴代が御用絵師をつとめた。初代梅田与兵衛は、江戸の木挽町狩野家の祖である狩野尚信に師事し、その後帰郷した。二代喜平次は、江戸で狩野友益と伯円父子に学び、帰郷後は金沢城二ノ丸御殿本丸の御用をつとめた。三代喜平次は、狩野伯円と即誉兄弟に学び、二ノ丸御殿や藩の御用を多くつとめた。四代喜平次は、狩野即誉に学び、節々で藩の御用をつとめた。
五代からは父や兄弟たちから画を学んで狩野派の画風を伝え、幕末まで絵師として活躍した。六代と八代から十一代までが「九栄」と称し、なかでも六代は多くの作品を残している。八代と九代は、作画のほか、蕉門の北枝の文台を継ぎ、洒脱な俳画も描いた。絵師として活動したのは十代までで、十一代は幼いころに絵を学んでいるが、作品は確認されていない。
梅田与兵衛(1627-1692)うめだ・よへい
寛永4年生まれ。加賀藩御用絵師前田家初代。家祖である服部喜平次の子。本名一信、温直。慶安2年江戸に出て狩野尚信に師事した。延宝年中、帰郷して安江町に住み、姓を服部から梅田に改めた。元禄5年、66歳で死去した。
梅田喜平次(2代)(不明-1702)うめだ・きへいじ
加賀藩御用絵師前田家二代。初代与平衛の子。名は種与、一信。号は霧舟斎。幼いころ父に画を学び、さらに江戸に出て狩野友益・伯円父子に学んだ。帰郷後、元禄年中に二ノ丸御殿、本丸御殿などの御用をつとめた・元禄15年死去した。
梅田喜平次(3代)(不明-1766)うめだ・きへいじ
加賀藩御用絵師前田家三代。二代喜平次の長男。名は種芳。号は澗水軒。狩野伯円・即誉兄弟に学んだ。16歳の時から二ノ丸御殿などの御用をつとめた。享保18年死去した。
梅田喜平次(4代)(不明-1744)うめだ・きへいじ
加賀藩御用絵師前田家四代。三代喜平次の子。名は令直。狩野即誉に学び、藩の御用をつとめた。延享元年死去した。
梅田喜平次(5代)(不明-1774)うめだ・きへいじ
加賀藩御用絵師前田家五代。三代喜平次の二男。名は親直、豊直。号は耕雲居。三代喜平次の弟である叔父の梅田与兵衛に画を学んだ。二ノ丸御殿などの御用をつとめた。明和年中に町御会所蝋燭肝煎役となったが、その後病身となり、安永3年死去した。
梅田九栄(6代)(1757-1800)うめだ・きゅうえい
宝暦7年生まれ。加賀藩御用絵師前田家六代。五代喜平次の長男。幼名は又吉、名は豊昌乗直、景直。通称は喜平次で、剃髪後に九栄と改めた。号は陳和斎、如質。画を父に学び、14歳の時に屏風絵を仰せ付けれら、その後、二ノ丸御殿、金谷御殿などの御用をつとめた。梅田家歴代のなかで最も事跡が多く作品も残っている。寛政12年、44歳で死去した。
梅田九渕(7代)(1779-1806)うめだ・きゅうえん
安永8年生まれ。加賀藩御用絵師前田家七代。六代九栄の長男。幼名は信次郎、名は種直。幼いころから父に画を学んだ。文化3年、28歳で死去した。
梅田九栄(8代)(1791-1846)うめだ・きゅうえい
寛政3年生まれ。加賀藩御用絵師前田家八代。六代九栄の子、九渕の弟。幼名は巳之助、名は周信、季信。号は菅阿弥、赤陵斎、年風。画を父と兄の九渕に学んだ。俳諧をよくし、蕉門の北枝の文台を継いだ。弘化3年、56歳で死去した。
梅田九栄(9代)(1815-1860)うめだ・きゅうえい
文化12年生まれ。加賀藩御用絵師前田家九代。八代九栄の子。名は幸直。号は著六斎。別号に江波がある。父に画を学び、幼いころから父の手伝いで藩の御用をつとめた。俳諧をよくし、蕉門の北枝の文台を父より継承し、北枝から六世を数え、北枝堂を建てた。万延元年、46歳で死去した。
梅田九栄(10代)(1846-1864)うめだ・きゅうえい
弘化3年生まれ。加賀藩御用絵師前田家十代。実父は紙屋長三郎で九代九栄の養子となった。幼名は芳作、名は芳直。号は年芳。養父に画を学び、万延元年養父病死のため名跡を相続したが、文久2年病身のため弟に家を譲った。文久4年、19歳で死去した。
梅田九栄(11代)(1858-1918)うめだ・きゅうえい
安政元年生まれ。加賀藩前田家十一代。幼名は徳平、名は直賢。九代九栄の子。画を兄の十代九栄に学んだ。文久2年、9歳の時に兄芳直が病身のため名跡を相続した。絵とは違った職業に就いたため、作品は確認されていない。石川県立工業学校(現在の石川県立工業高等学校)に先祖より代々受け継がれてきた粉本を寄贈した。大正7年、65歳で死去した。
石川(06)-画人伝・INDEX
文献:加賀藩御用絵師梅田家絵画資料1、金沢市史資料編16(美術工芸)、金沢市史通史編2(近世) 、新加能画人集成