長谷川等伯には、在郷時代の妻との間に二男二女がおり、男子は長男・久蔵と二男・宗宅で、女子にはそれぞれ等秀と等学が娘婿として迎えられた。さらに後妻との間に生まれた三男・宗也、四男・左近らが絵師として活躍し、それに縁者や一族、門人らが加わり長谷川派を形成していた。
長男の長谷川久蔵(1568-1593)は、能登に生まれ、幼いころに父等伯とともに上洛し、早くから画業に励んだと思われる。その画才は高く評価されており、等伯の跡を継いで一門を率いる存在として将来を嘱望されていたが、26歳の若さで没した。
久蔵の死は、等伯にとって計り知れない痛手であり、悲しみであったと思われ、以後の等伯の作風に少なからぬ影響を及ぼし、水墨画の名作「松林図屏風」を生み出したと考えられている。
久蔵は短い生涯だったため、その作品は極めて少ないが、現存している作品としては、東京国立博物館蔵「大原御幸図屏風」、京都市清水寺蔵「朝比奈草摺曳図絵馬」、国宝「祥雲寺障壁画」中の「桜図」(京都市智積院蔵)が知られている。
現在は京都市智積院に収蔵されている国宝「祥雲寺障壁画」は、豊臣秀吉が3歳で亡くなった愛児・鶴丸(棄丸)の菩提を弔うために建てた祥雲寺に、等伯ら長谷川派一門が描いたもので、「楓図」と「松に草花図」を等伯が、「桜図」を久蔵が描いたものと考えられている。
久蔵没後は二男の宗宅が等伯の後継者として期待され、徳川家康の要請のもと等伯とともに江戸に下ったが、慶長15年の江戸到着後間もなく等伯が没し、宗宅もそのあとを追うように翌年の慶長16年に没してしまった。
等伯、宗宅が相次いで没したのち、江戸では狩野探幽が江戸幕府の御用絵師として仕え、狩野派が確固たる地位を築き始めていた。一方で、京都の長谷川家は、その統率を後妻の子・宗也と左近に委ねられるようになったが、跡目争いもあったとみられ、弟の左近が等伯の画風を受け継いだのに対し、兄の宗也は京都の町絵師として神社仏閣の絵馬などを中心に描いていた。長谷川派は、京都での絵屋の道を選び、そこで生き残る術を見出していったと思われる。
長谷川久蔵(1568-1593)はせがわ・きゅうぞう
永禄11年能登国七尾(現在の石川県七尾市)生まれ。長谷川等伯の長男。法名は道淳。父等伯とともに上洛し京都で画業に励み、若くして父に勝るほどの実力を付けたといわれ、等伯の後継者として将来を嘱望されたが、文録2年、26歳で死去した。
長谷川宗宅(不明-1611)はせがわ・そうたく
長谷川等伯の二男。等後とも称した。先妻・妙浄の子で、等伯没後に法橋に叙され、久蔵没後の長谷川派の後継者となったが、その翌年に没した。作品としては「李白・陶淵明図屏風」(京都市北野天満宮)、「秋草図屏風」(京都市南禅寺)、「柳橋水車図屏風」(群馬県立近代美術館)などが知られている。慶長16年死去した。
長谷川宗也(1590-1667)はせがわ・そうや
天正18年生まれ。長谷川等伯の三男。新之丞とも称した。後妻・妙清の子とされるが庶子とする記述もある。兄久蔵・宗宅没後の長谷川派の主要画家として、等伯の跡を継いで京都三条衣棚に住み、江戸時代前期頃に活躍したとみられるが、四男の左近が「自雪舟六代」を名乗っており、複雑な事情をにおわせる。作品は「大黒布袋角力図絵馬」(京都八坂神社)、「葛に昆虫図屏風」(個人)、「虎図絵馬」(京都市清水寺)などがある。寛文7年、77歳で死去した。
長谷川左近(1593-不明)はせがわ・さこん
文禄2年生まれ。長谷川等伯の四男。等重とも称した。後妻・妙清の子とされる。江戸時代初期から前期頃に活躍したとされるが経歴は不明。「自雪舟六代」を称し等伯の画業を継承したとされる。作品としては「板絵三十六歌仙扁額」(滋賀県海津天神社)、「波龍図屏風」(和歌山県金剛三昧院)、「牧牛野馬図屏風」(ボストン美術館)などがある。
石川(02)-画人伝・INDEX
文献:等伯をめぐる画家たち、長谷川派の絵師たち、新加能画人集成