吉原治良(1905-1972)は、大阪市の植物油問屋の二男として生まれ、中学時代から油絵を独習した。関西学院高等商業学部在学中に兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)に転居し、そこでパリから帰国したばかりの上山二郎と出会い、ヨーロッパの文化や新しい美術の動向に触れ、本格的に画家を志すようになった。
また、上山の紹介で17年ぶりにパリから帰国していた藤田嗣治と出会い、この時に藤田から吉原の作品にみられる他者からの影響を指摘され、オリジナリティーの重要性を強く認識し、「絶対に人の真似をしない」ことを自らに課すようになった。
昭和9年、藤田の勧めで二科展にシュルレアリスム風の絵画を発表して本格的に画壇にデビューし、その後、デ・キリコ風の絵画から純粋抽象へと展開した。昭和13年には井上覺造、山本敬輔ら二科会の前衛作家たちと「二科九室会」を結成し、戦前の前衛美術運動をリードした。
戦後は二科会再建に会員として参加する一方で、昭和23年に芦屋市美術協会の結成に参加して代表をつとめ、昭和27年には植木茂、須田剋太らと現代美術懇談会(ゲンビ)を発足させ、関西前衛画壇を盛り上げた。
昭和29年、関西の美術界に台頭してきた戦後世代の若い芸術家たちを集めて「具体美術協会」を結成し、そのリーダーとして若い芸術家たちを指導する一方で、自らの仕事は単純にして多様な円の表現へと昇華していった。
吉原率いる「具体」は、フランス人批評家ミシェル・タピエと連携して国際的な活動も展開して高い評価を得たが、昭和47年の吉原の死によって同年解散した。しかしその活動は、近年になって世界的規模で再評価されはじめている。
吉原治良(1905-1972)よしはら・じろう
明治38年大阪市生まれ。生家は老舗の油問屋。中学時代より独学で油絵を始め、関西学院高等商業学部時代は艸園会に参加した。昭和3年同校卒業後、芦屋在住の上山二郎の知遇を得て、上山の紹介で東郷青児、藤田嗣治と知り合った。昭和9年藤田の紹介で第21回二科展に抽象絵画を出品。昭和13年二科会の前衛作家たちと前衛美術グループ「二科九室会」を結成し、戦前の前衛美術運動に大きな足跡を残した。昭和23年芦屋市美術協会の結成に参加して代表に就任。昭和27年現代美術懇談会(ゲンビ)を発足。昭和29年阪神間の若い芸術家たちと具体美術協会を結成し、そのリーダーとして次々と新しい活動を試みた。昭和47年、67歳で死去した。
井上覺造(1905-1980)いのうえ・かくぞう
明治38年大阪市生まれ。昭和3年神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を卒業後、信濃橋洋画研究所で小出楢重の指導を受けた。学生時代から吉原治良と交友し、上山二郎を通じて藤田嗣治の知遇も得た。昭和5年第17回二科展に初入選し、昭和13年吉原治良、山本敬輔らとともに二科九室会を結成した。昭和14年第26回二科展で特待となり、昭和17年第29回二科展で二科賞受賞、昭和20年二科会会員となった。昭和18年戦禍を逃れて芦屋浜に移り、芦屋女学校の教壇にたった。昭和23年芦屋市美術協会の結成に参加。昭和55年、75歳で死去した。
山本敬輔(1911-1963)やまもと・けいすけ
明治44年兵庫県姫路市生まれ。代々姫路藩の侍医の家系。医者になるべく旧制姫路高校理科乙類に進んだが中退して昭和5年頃に彫刻家・藤川勇造をたよって上京した。昭和9年第21回二科展に初入選し、以後同展に出品を続けるとともに、昭和10年に黒色会、昭和13年に絶対象派協会、さらに同年二科九室会と次々と新しいグループの結成に参加し、戦前の前衛美術運動の先駆的役割を果たした。昭和21年藤井二郎とともに芦屋美術文化研究所を開設、同年二科会会員となった。昭和23年芦屋市美術協会の結成に参加。はじめシュルレアリスム風の作品を描いたが、次第に抽象性が増し、昭和12年頃から構成主義的な作品を制作した。昭和38年、51歳で死去した。
兵庫(67)-画人伝・INDEX
文献:兵庫の美術家県内洋画壇回顧展、芦屋の美術、コレクションでたどる姫路市立美術館の25年、生誕100年記念 吉原治良展