江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本の可愛いもの文化の元祖とされる松本かつぢ

松本かつぢ「みずうみのほとり」

松本かつぢ(1904-1986)は、兵庫県神戸市に生まれ、小学4年の終わりに家族とともに上京し神田猿楽町に住んだ。夏目漱石も出た名門・錦華小学校に転校し、同校卒業後は立教中学に進学、在学中から雑誌のカット描きのアルバイトを始めた。

18歳の時に中学校を中退し、本格的にデッサンを学ぶため川端画学校に通ったが、19歳の時に関東大震災が発生したため東京を離れて友人のいた上海に渡った。いずれはパリに渡ることを夢見て渡仏費用をつくるため上海の街頭で絵を売ったりもした。

しかし、20歳の時に兵役検査のために帰国。結局、偏平足のため丙種不合格となり、朝日新聞社の発送課に勤務するかたわら、アルバイト的に博文館の雑誌にカットや挿絵を描いていた。この頃「令女界」に載った蕗谷虹児渡仏送別会の記事に触発され、抒情画家として立つことを決意する。

昭和3年、24歳の時に少女雑誌「少女世界」で挿絵画家として念願のデビューを果たした。すると、エキゾチックで繊細な美少女画でたちまち頭角をあらわし、高畠華宵(参考)、蕗谷虹児(参考)らに続く新世代の画家として人気を博し、中原淳一と人気を二分するようになった。

一方で、ユーモアタッチの挿絵やコミカルな漫画にも挑戦し、新境地を開拓した。昭和13年には少女漫画の先駆け的作品である「くるくるクルミちゃん」の連載を「少女の友」1月号で開始した。同作品は発表雑誌を変えながら足かけ35年もの長期連載となり、クルミちゃんは愛すべきキャラクターとして定着し、次々とグッズ化され、日本のキャラクターグッズの元祖となった。

昭和30年、50歳を迎えたのを機に少女雑誌の仕事からの引退を表明し、童画の仕事やベビーグッズの企画・制作なども手掛け、コンビから発売されたベビー食器は大ヒット商品となるなど多方面で活躍した。

松本かつぢ(1904-1986)まつもと・かつぢ
明治37年兵庫県神戸市生まれ。本名は勝治。父親の仕事の都合で小学校4年生の終わりに家族で東京に移り住んだ。立教中学を中退して川端画学校でデッサンを学んだ。中学在学中から雑誌のカット描きのアルバイトを始めた。昭和初頭に少女雑誌で挿絵画家としてデビュー。昭和13年「くるくるクルミちゃん」の連載を開始し、その後も発表雑誌を変えて35年間連載を続けた。昭和30年代からは童画やベビーグッズの企画・制作も手掛けた。昭和61年、82歳で死去した。

兵庫(66)-画人伝・INDEX

文献:松本かつぢ 昭和の可愛い!をつくったイラストレーター