平沢屏山の弟子といわれる絵師に木村巴江(不明-不明)がいる。函館水元の水茶屋の主人だったとも、理髪業を営んでいたとも伝わっている。経歴などは不明だが、屏山に学び、筆勢は及ばないが師風をよく伝えている。模写が多く、作品の構図も屏山によく似たものが多い。「蝦夷神祭之図」(掲載作品)は巴江が69歳の時の作品で、屏山作品に同様の構図が見られ、4つの場面が複合されている。
開拓使官吏として北海道を訪れた雑賀重村(1836-1880)は、幼いころ星暁村に画を学び、アイヌの肖像を巧みに描いた。明治12年に香港大守が北海道を訪れた際には、夫人に記念のアイヌ絵を贈ったという。明治15、6年頃に北海道に渡り函館県に画を以て仕官した沢田雪渓(1844-不明)は、「風俗画報」に挿絵を描き、石版の「北海道渡島国鶉山道開鑿真景」を刊行した。西川北洋(不明-不明)は、近代のアイヌの集落と生活を描いた貴重な資料である「明治初期アイヌ風俗絵巻」(市立函館図書館蔵)を残している。ほかには、橋本芳園、山本竹陵、今村三峯らが明治期にアイヌを題材にした絵画を描いている。
木村巴江(不明-不明)
本名は木村萬吉。平沢屏山にアイヌ絵を学んだ。蝦夷島奇観の模写が市立函館図書館に所蔵され、そのなかの「熊扼殺の図」が木版画として出版されている。のちに小樽に移り住み、小樽で没したとされる。
雑賀重村(1836-1880)
天保7年生まれ。本名は一ノ瀬帰一。一ノ瀬郷助の三男。星暁村に画を学んだ。安政年間に会津藩の命令で蝦夷を巡回視察したことがあったが、函館戦争の時には榎本軍についた。その後、開拓使官吏となって北海道開拓に尽くした。明治13年、45歳で死去した。
沢田雪渓(1844-不明)
弘化元年武州生まれ。藤江雲峨、吉沢雪庵に画を学んだ。明治15、6年頃に北海道に渡り函館県に画を以て仕官した。「風俗画報」に挿絵を描いた。代表作として、明治18年に刊行した石版の「北海道渡島国鶉山道開鑿真景」がある。
西川北洋(不明-不明)
旭川トミヤ出版部から発行された「明治初期アイヌ風俗絵巻」(市立函館図書館蔵)は、近代のアイヌの集落と生活を描いた貴重な資料で、集落の遠景図では10棟あまりのチセやプ(倉庫)、さらに室内での生活などを描いている。アイヌ風俗の研究に没頭し、日高から釧路、根室方面に遊歴、アイヌの家に寝起きして数年過ごし、本図を描いたという。
北海道(16)-画人伝・INDEX