江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

函館に滞在してアイヌを主題にした絵を描いた平福穂庵

平福穂庵「アイヌ鮭漁図」

平福穂庵(1844-1890)は、秋田の角館町に生まれ、7歳で同じ町内に住んでいた四条派の武村文海に画を学び、17歳で本格的に絵を学ぶべく京都に出たが、師には就かず、写生や古画の模写によって独修した。遊歴を好み、行く先々で作品を描いている。北海道には3度渡り、アイヌの生活や風俗を観察するとともに、最後のアイヌ絵師とされる平沢屏山や、京都で評判だった蠣崎波響の作品を研究し、アイヌを主題にした絵を残している。

穂庵が初めて北海道に渡ったのは明治5年のことだった。これは、以前同じ町内に住んでいて、新天地を求めて日高浦河に移り住んでいた友人の堺清兵衛を訪ねてのものだったが、穂庵の主な目的としては、京都に住んでいた時に聞いた蝦夷地のことや、天覧に預かったという蠣崎波響の「夷酋列像」について実際に見聞することだった。浦河にどれだけ滞在したかは不明だが、この時にアイヌの人たちの生活、風俗などに深く興味を持ったものと思われる。

2度目は明治10年で、穂庵の後見者だった盛岡の実業家・瀬川安五郎の招きで函館を訪れている。この時は、瀬川の函館での事業を手伝うはずだったが長く続けられず、改めて明治15年に函館を訪れ、翌16年の12月まで約2年間滞在し、瀬川の経営する海産物を扱う函館出張所の仕事を手伝った。そのからわら、函館の雑誌「巴珍報」に挿絵を描き、16年新春号には、函館花柳界の美妓10人を選んで「名花十優」の木版画を載せ、大変な好評を受けた。穂庵が「居候くさやの酔庵」と称していたのはこのころである。

また、すでに没して5年が経っていた平沢屏山のアイヌ絵の観察と模写にも取り組み、特に「蝦夷風俗十二ケ月屏風」には、強い影響を受けている。念願の蠣崎波響の「夷酋列像」も見ることができ、盛んに模写している。明治17年に第2回絵画共進会に出品した「北海道土人之図」をはじめ、「アイヌ昆布干之図」「アイヌ鮭漁図」「アイヌ鹿狩図」など、一連のアイヌ主題の絵をこの時期に描いている。

平福穂庵(1844-1890)
弘化元年秋田県角館生まれ。平福百穂の父。名は芸、通称は順蔵。初号は文池。父親も絵が好きで染物屋をしていた。はじめ近所の四条派・武村文海に学び、17歳の時に本格的に絵の勉強をするために京都に出たが、師にはつかず写生や古画の模写などで独修した。慶応2年帰郷し、また東京に出て、明治14年竜池会に「乞食図」を出品して認められ、その後は絵画共進会に出品した。明治15年から2年間函館に住み「巴珍報」に挿絵を描き、アイヌを主題にした作品も多く残した。 門人に寺崎広業がいる。明治23年、47歳で死去した。

北海道(14)-画人伝・INDEX

文献:平福百穂父子の画業展、平福穂庵画集、描かれた近世アイヌの風俗