従兄の白井永川から南画の手ほどきを受けた白井烟嵓は、その後上京して崋椿系南画の流れを汲む松林桂月に学び、戦前・戦後を通じて中央画壇で活躍した。平成14年には田原市博物館で「崋山・椿山の画風を継いだ最後のひと・白井烟嵓」が開催され、その経歴は展覧会図録や他サイトに詳しい。ここでは、烟嵓の著書『東三河画人伝』の中から、他では掲載されていない画家やその周辺の人物について紹介する。
高須華外(不明-不明)たかす・かがい
曲尺手の南側に呉服や漆器、嫁入り道具一式を商う「八星」という大きな店があり、その店の主人。前項に登場した南画研鑚会「尚雅会」の会場となった店である。華外は裕福な好事家で、邸内は広く、別棟に数奇を凝らした庭園などがあり、「雅人の集まりには極めて都合がよかった」という。いつかしら日を定めて会合するようになり、持ち寄った作品の批評やら席画を楽しんだ。風流人・華外は闊達磊落な人物で、薄墨で上品で格調高い画を描いており、烟嵓は「余り数は描かず作品も少ないと思うが、今あれば、きっと名品のはず」と評している。
下村快雨(1879-不明)しもむら・かいう
豊橋市指笠町の願成寺の住職。椿山風の極めて温雅な作風だった。席画もなかなか達者で、よく画会で同席した。豊橋には作品が相当残っているはずだが、烟嵓は「帰郷の度に探すが、いまだお目にかかれない」と語っている。
武田松荷(1842?-1922)たけだ・しょうか
豊橋市東田町の全久院二十七世の住職。玉珠の玉を得意とし、描くのが速かった。会が終わってからの宴席で隣だったので、お膳についた魚をどうするか見ていたら、刺身をむしゃむしゃ食べていた。驚いた烟嵓は「全久院は生臭坊主だ、と毒付いたこともあったが、今考えると恥じ入るばかり」としている。
井戸芳水(不明-不明)いど・ほうすい
東雲座の近くの小庵に住む半俗半僧。尚雅会では「井戸坊」と呼ばれていた。どこへでも顔を出すので、よく会った。遊びに来いと誘われたが、烟嵓は「その作品から受ける感じから訪ねる勇気はなかった」としている。
角煙巌(不明-不明)すみ・えんげん
小坂井市出身の詩人。いつも羽織袴で、笑った顔を見たことがないが、「詩も書も一番うまかった」。烟嵓が師匠の松林桂月に雅号を決めてもらう際、故郷の煙巌山から「エンガン」にしろと言われたが、「先輩の詩人に角煙巌というひとがいるからまずい」と難色を示すも、桂月に「画を描かない人ならかまわんじゃあないか、それにしろ」と押し切られ「エンガン」に決まった。同じ読みの雅号に煙巌も気になっていたのか、烟嵓の画に賛をしてみたいと望んでいたらしいが、それもかなわず煙巌は他界した。その報に烟嵓は「同じ"エンガン"を名乗りながらも、なんと薄縁であったか」と嘆いた。
松坂眠石(不明-不明)まつさか・みんせき
牛川の松坂家の二男。青年時代は百花園に通って小華に学んだが、自分の才能が絵よりも印刻にあると思い、印刻に専念するようになった。親の財産を継いだ時に三河製糸工場を創立したが失敗。意を決して料理研究の目的で米国に渡り、7年間滞留して帰国後に料亭を開いたが失敗。食うや食わずの生活をしていたが、晩年は印刻が博物館で認められ騒がれるようになった。その博識は驚くべきもので、知らないと言ったことがない。烟嵓は「当時は誰も口にしなかったベターメン(ビタミン)という言葉がしきりに出た」としている。
佐藤雨声(1895-1941)さとう・うせい
八名郡多米村の加藤家に生まれ、石巻村の佐藤家の養子となった。本名は芳一。別号に石邦、対巻居がある。郵便局に勤めながら白井永川に学び、その後上京して、先に東京に出ていたと烟嵓と大塚で共同生活をする。小坂芝田に学び、芝田の死後は福田浩湖に師事した。烟嵓が「貧乏書生が、同年輩の書生一人を抱えた形」と記した4年ほどの悪戦苦闘のすえ、雨声は帰郷して豊橋郵便局へと勤めを戻した。郵便局退職後の雨声は雅人として再起し、豊橋でも個展を再三開催、「芝田でもなく、浩湖でもなく、彼一流の画風になった」と烟嵓も評している。また雨声は短歌もたしなみ、短歌雑誌「犬蓼」「三河アララギ」を発行、書人としての「佐藤房一」も出色で、烟嵓は「どこへ居を移しても、一生を通じて風流人として終始した」と画友を回想している。
東三河(8)-画人伝・INDEX
文献:東三河画人伝