福沢一郎(1898-1992)は、明治31年、群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)に生まれた。旧制富岡中学校を経て、仙台の旧制第二高等学校英法科を卒業、大正7年に東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に入学した。
当時のエリートコースを歩んでいた福沢だったが、仙台の二高在学中から絵画や彫刻に関心を示していたこともあり、東京帝大入学後も学問に励むことなく、入学した年のうちに彫刻家・朝倉文夫の主宰する彫塑塾に入門した。
朝倉塾に入門した福沢は、下谷三崎町の下宿のそばに小屋を造って彫刻の制作に没頭し、大正11年、24歳の時に第4回帝展彫刻部で初入選し、新進彫刻家としてデビューを果たした。
大正13年、26歳の時に彫刻を学ぶために渡仏、その後7年間をフランスで過ごした。パリでは、朝倉塾以来の友人・木内克に加え、佐伯祐三、中山巍、高畠達四郎、さらに当時パリ画壇の寵児として活躍していた藤田嗣治らと交流し創作活動を始めたが、次第に彫刻表現に興味を失うようになり、絵画表現へと移行していった。
当時のパリは新しい芸術思潮が次々と誕生しており、いわゆるエコール・ド・パリの只中にあり、芸術熱に沸いていた。福沢の渡仏直後にはアンドレ・ブルトンによる「シュルレアリスム宣言」が発表され、その潮流が頂点に達し、福沢もシュルレアリスムへと傾倒していった。
滞仏中の昭和4年、パリから第16回二科展に油彩画10点を特別陳列、同年独立美術協会の結成に参加し、翌年1月の第1回独立展にシュルレアリスムの手法による作品37点を特別陳列し、日本の美術界に衝撃を与えた。
同年帰国し、その後も独立展にシュルレアリスムの大作を出品し続けていたが、昭和14年、41歳の時に独立美術協会を退会し、同年美術文化協会を結成した。昭和16年には、超現実主義者(シュルレアリスト)は共産主義者であるという嫌疑をかけられて半年あまり留置され、その後も制作活動は制限されたが、戦後になるとすぐに旺盛な制作活動を軌道に乗せ、モニュメンタルな群像を次々と描きだし、「敗戦群像」(掲載作品)などの代表作を生み出した。
昭和24年、51歳の時に美術文化協会を退会して無所属となり、翌年北海道を旅行して北海道の風物を主題とした作品を発表、その後はヨーロッパをはじめ、中南米、南アジア、ニューギニアなどの世界各地を巡って、人間表現を主テーマに文明批判ともとれる壮大なスケールの大作を発表した。画風は抽象表現を経て、神話や地獄、古代史などに主題を求めたテーマ性の強い絵画へと変わっていった。
福沢一郎(1898-1992)ふくざわ・いちろう
明治31年群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)生まれ。富岡町長をつとめた福沢仁太郎の長男。大正4年旧制富岡中を卒業、旧制二高英法科を経て、大正7年東京帝国大学文学部に入学したが、次第に大学から遠ざかり、彫刻家の朝倉文夫のアトリエを訪ねて入門した。大正11年第4回帝展彫刻部に入選。大正13年彫刻を学ぶため渡仏したが、その後絵画に転向した。滞仏中の昭和5年、独立美術協会の結成に参加し、翌年1月の第1回展にはパリから作品37点を特別陳列し、当時の美術界に衝撃を与えた。同年6月に帰国、その後も独立展に発表し続けたが、昭和14年に同展を退会して同年美術文化協会を結成。昭和16年には超現実主義者は共産主義社であるという戦時下のいわれなき嫌疑を受けて、半年あまりの間連行留置された。昭和24年美術文化協会を退会、昭和29年から32年まで美術文化協会建て直しのため再度入会した。昭和35年多摩美術大学教授に就任。昭和39年からは女子美術大学の教授も兼ねた。昭和53年文化功労者、平成3年文化勲章を受章した。平成4年、94歳で死去した。
群馬(29)-画人伝・INDEX
文献:生誕100年記念福沢一郎展、群馬の近代美術、群馬の美術 1941-2009 群馬美術協会の結成から現代まで、『ぐんま』ゆかりの先人、北関東の近代美術、群馬県人名大事典