江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

群馬県内外43カ所の寺院に天井画を描いた林青山

林青山「みなかみ町・廣福寺の天井画」(部分)

群馬県利根郡桃野村上津(現在のみなかみ町上津)に生まれた林青山(1847-1933)は、6歳で藤岡の法橋重信の門に入り、絵の勉強をはじめ、13歳の時に湯の原村(現在の新治村)の林豊山に師事し、また華道も習い、さらに下津の内海蓬堂から書法を学んだ。

16歳の時に帰郷し、月夜野町如意寺の格天井に「雲竜図」を描き、周囲を驚かせたという。明治元年、22歳の時に下津小川島の林家の婿養子となり、林姓を名乗るようになった。その後は仙台から関東信越方面にまで周遊し、新潟県蒲原郡の富取芳斎の門に長く逗留した。

太田の大光院にも長く滞在し、絵を描きながら僧侶の苦行も積んだ。その間に描いた天井画は、新治村但馬院、下牧玉泉寺、師竜谷寺、赤堀大林寺、桐生鳳仙寺など、群馬県内外43カ所に達する。門人には神田可亭(1868-1938)らがいる。

林青山(1847-1933)はやし・せいざん
弘化4年利根郡桃野村上津(現在のみなかみ町上津)生まれ。原沢房吉の三男。本名は周吉。別号に晴山、晴月耕などがある。法橋重信、林豊山に師事、華道も修めた。また、内藤蓬堂に書法を学んだ。16歳の時に如意寺に天井画を描いた。この頃は「晴山」と名乗っていた。明治元年下津小川島の林家の婿養子となり林姓となった。その後仙台から関東信越方面にまで周遊、新潟県蒲原郡の富取芳斎の門に長く寄遊した。太田の大光院にも長く逗留し、絵を描きながら僧侶の苦行も積んだ。その間、県内外43箇所の寺院に天井画を残した。明治13年月夜野の青柳琴僊が14歳で入門し約5年間指導。明治24年東京の滝和亭に師事。明治26年琴僊らとシカゴ万国博覧会に出品。明治33年日本美術協会美術展覧会に出品、作品が宮内省買上げとなった。明治43年、64歳で故郷の桃野村下津の小川島に帰郷。昭和9年、88歳で死去した。

神田可亭(1868-1938)かんだ・かてい
明治元年利根郡川田村生まれ。名は巳寿太郎。初号は青斎。11歳の時に歌舞伎役者の二十四面相を描写し、13歳の時には、蓬蓮遠州流挿花の秘伝・口伝四十八種を図解によって画帖をつくり、少年期から才能をみせていた。小学校4年卒業の時、林青山に入門、青斎と号し、のちに長野の児玉果亭に師事して可亭と改号した。長じて和歌山に遊び、縁あって当地の神田家に入婿し、妻の料理手腕をいかして旅館「関東屋」を営業、経営は妻にまかせて、自らは画業に専念した。主に山水図、花鳥画を描き、特に鴨、鵞を得意とした。大正13年、56歳の時には故郷川田村の生家で個展を開催した。昭和13年、70歳で死去した。

群馬(13)-画人伝・INDEX

文献:林青山天井画集 第1輯、利根沼田の人物伝、上毛南画史、群馬県人名大事典