美濃地方での南画家の動向を地域的にみると、第一世代の南画家は西美濃地方から多く出ている。大垣では江馬細香をはじめ、梁川星巌、梁川紅蘭ら漢詩人や思想家たちが南画家として活躍した。これは当時の大垣を中心とした文運隆盛の気運と切り離しては考えられない。
江馬細香の父・江馬蘭斎は大垣藩医(漢方医)だったが、46歳で蘭学を志し、江戸に出て杉田玄白に蘭方医学を、前野良沢に主にオランダ語を学んだ。大垣に帰ってから蘭学塾「好蘭堂」を興して多くの門人を育て、大坂、京都よりも早く美濃の地に西洋医学をもたらした。その周辺には多くの文化人が集まり、詩、書、画が盛んに行われた。西美濃地方の主要南画家に江馬細香、梁川紅蘭と2人の女性がいるのも、当時の開明的風土を物語っている。
梁川星巌(1789-1858)やながわ・せいがん
寛政元年安八郡曽根村生まれ。郷士稲津長高の長男。名は卯のちに孟緯、字は公図のちに伯兎、通称は新十郎。別号に詩禅、百峰などがある。のちに梁川姓に改姓した。幼い頃から大叔父にあたる華渓寺住職・太随和尚に学んだ。19歳の時に江戸に出て山本北山の塾に学んだ。文政3年「またいとこ」にあたる紅蘭と結婚したが、翌年、紅蘭をおいて一人で詩作の旅に出た。同5年には夫婦ともに5年にわたる西国へのあてのない旅に出て、頼山陽ら多くの漢詩人や儒者と交流した。再び江戸に出て天保5年に「玉池吟社」を興し、多くの門人を育てた。また、藤田東湖や佐久間象山ら幕末の志士たちと交わり、のちに京都に移り、吉田松陰や梅田雲浜ら勤皇の志士たちの指導者的存在となった。安政5年、70歳で死去した。
梁川紅蘭(1804-1879)やながわ・こうらん
文化1年安八郡曽根村生まれ。西稲津家の出。別名は張紅蘭、張氏紅蘭。幼い頃から学問を好み、華渓寺住職・大随和尚に学び、14歳で梁川星巌の利花村草舎に学んだ。17歳で32歳の星巌と結婚し、西遊の旅に出て諸士と交流した。安政5年星巌没後に京都で逮捕され、投獄されたが、釈放後は塾を開き子女に詩文を教えた。明治12年、76歳で死去した。
小原鉄心(1817-1872)おはら・てっしん
文化14年生まれ。大垣藩士・小原忠行の長男。名は忠寛、字は栗卿、通称は二兵衛。別号に是水がある。日根野対山に師事して画を学んだ。大垣藩の重臣として、藩の財政や軍制改革を推進した。慶応4年明治新政府のもとで参与職についた。藩は勤皇か佐幕かで揺れていたが、激論の末に藩論を勤皇への統一に導いた。一方で酒と梅を愛し、別荘「無何有荘」に多くの志士や学者を招いて詩文や書画に興じた。明治5年、55歳で死去した。
飯沼慾斎(1782-1865)いいぬま・よくさい
天明2年伊勢亀山生まれ。西村信左衛門の二男。名は長順、旧名は西村専吾。叔父が営む店「鮫屋」の帳場で遊びうちに文字や計算を覚え、寛政6年、12歳の時に本格的に学ぶため母方の実家がある大垣に出て、俵町の町医である飯沼長顕に、儒学、医学を学び、22歳の時に長顕の娘と結婚して、二代龍夫として飯沼家を継いだ。同年本草学の小野蘭山に入門し、植物の研究を始めた。28歳の時に江戸で宇田川玄真らから蘭方医学を学び、大垣で町医者として開業した。50歳頃から「平林荘」に隠居し、自然科学の研究に没頭、日本で最初の体系的植物図鑑『草木図説』を著した。初版本の刊行にあたっては、原画の質を落とさないように慾斎自身が印刷用の下絵づくりに参加した。晩年になっても鉄砲の火薬製造や写真などの研究を行なった。慶応元年、83歳で死去した。
岐阜(3)-画人伝・INDEX