江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

ネット検索で出てこない画家 その3

酒井覚酔 さかい・かくすい
元治元年7月生まれ。播州の人。幼名は金三郎、号は大斗。高橋由一に洋画を学ぶ傍ら写真術を研究した。朝野新聞に掲載した洋風挿画は、わが国初の新聞洋風画挿画とされる。後に写真師となったが、洋画の素養を応用して、濕版法乾版(瞬間写真)不変色写真などの技術の研究に尽力した。

眞田久吉 さなだ・ひさきち
明治17年11月東京本郷に生まれる。はじめ白馬会溜池研究所に入って学び、のちに東京美術学校に入学、42年に西洋画科を卒業した。大正元年に斎藤与里、高村光太郎とフューザン会を起こし、第一回展に「ダリヤの花」を出品する。大正5年、台湾を巡遊して帰国後に、又木亨三とともに個人展覧会を開催、同年、斎藤与里、萬鉄五郎らと日本美術家協会を結成した。

高田常齋 たかだ・つねとき
安政元年伊豆国三島町に生まれる。名は常三郎、別号に三島堂。山中松韻、村田香谷に南宗画を、中丸精十郎、清水東谷に洋画を学び、のちにシーボルト、ワーグマンにも学んだ。明治28年10月、神奈川権現山に香雪館を設け、本田錦吉郎、山本芳翠、原田直次郎、中丸精十郎、小山正太郎、五姓田芳柳らと往来して、日本浮上、油絵の輸出に尽くした。

高安紫山 たかやす・しざん
天保6年7月11日茨城郡加茂部村に生まれる。名は知明、字は子周、別号に雨岳古樵。幼い時に怙恃を失い、土浦藩高安源貞の養嗣となった。長じて水戸に遊び医学を本間棗軒に学び、慶應3年江戸に移って開業した。山水花草を好み、古名家に出入りし、古人の粉本を模写した。

武田粲 たけだ・あきら
明治16年東京生まれ。彫刻家。父は小説家の武田仰天子。はじめ竹中光重に木彫を学び、のちに東京美術学校に入学、明治40年に木彫科を卒業した。まもなくイタリアに渡り、後にイギリスに転じ建築装飾を学んで大正9年1月に帰国した。東台彫塑会会員。

文献:明治大正文學美術人名辭書