江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

秋田(10)-ネット検索で出てこない画家

明治期の画家(2)
日野雅亮
秋田市西勝寺の僧。茶と画をよくした。

古尾谷竹村
秋田市鷹匠町の画家。

堀井竹堂
秋田市八丁の画家。名は和兵衛。

皆川雨邨
秋田市楢山の狩野派の画家。名は清四郎。

宮沢水寮
秋田市楢山表徒士町の画家。名は茂、通称は運蔵。菊池容斎の門人。

武藤玄海
六郷町の南画家。

沢畑松嶺
秋田市手形の画家。はじめ高橋璞斎に学び、後に佐藤☆斎(☆は「たけかんむり」に「均」)に学んだ。

竹村四勿軒
文化12年生まれ。角館町の小人町の画家。佐竹北家組下の武士。諱は宗政、字は以徳、幼名は政太郎、平七郎、仲、別号に如向、北海、徳山、柳塘、梅竹陳人がある。篁邨の祖父。明治元年7月26日、54歳で死去した。

畠山竹塢
享和3年生まれ。秋田藩士。本名は敬蔵、恭蔵、名は成美、別号に仁渓魚叟がある。増田九木の門人。弟子に秋田市新屋の僧日野竹塢、和田翼亭がいる。

佐々木雪洞
文化8年仙北郡西仙北町土川の小杉山字杉沢生まれ。本名は栄蔵。佐々木正右衛門の長男。早くに母を亡くし、継母が入ったが10歳の頃に出奔、放浪のあげく福島に辿り着き、東白川郡常豊村常世字中野の荒川小左衛門の家を継ぎ、長じて寺子屋を建て多くの子弟を育てた。学の号は九渕。60歳頃にいちど生家に帰ってきたが、実家が傾いていたので、おおいに絵を描いて家の復興に尽くしたという。「雪洞のタカ」と称されるほど鷹の絵を得意とした。明治12年死去。

川村淇泉女
那珂淇水弟の娘。はじめ観斎に師事した。

大坂東岳
天保13年頃に生まれた。西仙北町刈和野の大坂甚兵衛の二男。通称は新吉、甚兵衛、別号に五松庵、酔月堂、一雅などがある。中仙町長野の漢方医・菅原玄流の長女ミツと結婚し、菅原文嶺と名乗ったこともあり、この名のほうが通りがいいかもしれない。角館の武村文海に師事し、同門の平福穂庵より画才があると認められ、師の文海から「文嶺」を与えられ、穂庵は山より低い意味の「池」と付けた「文池」の雅号となったといわれている。万延元年12月、穂庵は修業のため京に上り、その頃東岳も江戸に出かけたがほどなく帰郷し、横手市の柴田南谷に入門した。京で弟弟子の穂庵が人気を集めだすと、東岳はあせりだし、毎日酒を飲んでは人と口論し、従来の絵画のあり方を批判し抵抗した。この頃に雅号を「文嶺」から「東岳」に変えて心機一転を試み、文海ゆずりの四条派から変形的な作風へと変わっていくが、精神に異常をきたし行方不明となり、明治15年、峰吉川で遺体で発見された。

秋田(10)-ネット検索で出てこない画家

文献:秋田書画人伝