当時の遠州では、隆盛を誇った崋椿系だけではなく、独自の技をもった南画系も数多くみられた。楚州に師事した黄檗宗禅僧・禅統をはじめ、野賀岐山、石川鴻斎、金原霞汀、柏木緑雨、高橋月査、田中梅崖、杉山小谷、新貝真蔭、小国重友ら多彩な南画家がいる。
金原霞汀(1839-1904)きんぱら・かてい
天保10年10月4日長上郡三河島村生まれ。名は玉城。嘉永6年15歳の時、天龍川納水の親と称される金原明善と結婚。はじめ静岡の鵜殿霞舟に学び、のちに衣笠豪谷に丹青の法を受けて、南画をよくした。明治37年、66歳で死去した。
柏木緑雨(1843-不明)かしわぎ・りょくう
天保14年9月15日尾張国津島町生まれ。津島神社の神官堀田益人の二男。16歳の時に無断で家を出奔し、京都に入り中西耕石の門に学んだ。耕石は緑雨の画才を認め、養子となることを望んだが、田舎が恋しいとこの求めを断り、京都を出て各地の景勝地で画の修行をした。慶応2年頃遠江に入り、浜名湖北岸の引佐郡三ケ日町鵺代の豪農で歌人柏木☆彦(☆は「木」+「解」)の長女くみの養子となった。養子になった当時は半農と号し、のちに石亭、松処と号し、さらに緑雨と改めた。遠江人になってから浅井白山の東遊に際して、雄踏町の藤田葉山と共に画法を問い、渡辺小華にも学んだ。その画才は中村生海も「遠江画人中、最も確かな手腕を持っている」と認めていたが、晩年に至り不幸続きとなり遂に落莫してしまったという。明治30年11月29日、55歳で死去した。
高橋月査(1822-不明)たかはし・げっさ
文政5年4月3日三河国渥美郡杉山村生まれ。俗姓が高橋、名は行慶、別号に遠湖がある。高野山に登り苦学してその奥を修めた。画は川本月下に学び墨梅をよく描いた。
田中梅崖(1865-1907)たなか・ばいがい
慶応元年生まれ。名は音次郎。大阪市の出身だが、明治34年に初代の浜松郵便局長として浜松に来た。画歴は不明だが、白描の観音像などが残っている。明治40年2月19日、43歳で死去した。
杉山小谷(1863-1922)すぎやま・しょうこく
文久3年生まれ。浜名郡白須賀町の人。名は義光、通称は半十。小谷と号し、雪嶺、さらに呉洲と改めた。また別号に惟一斎、桜香舘、臥龍もある。跡見復山に画を学び、滝和亭にも従ったが、のちに尾張の山本梅荘の門に入った。大正11年死去。
遠州(7)-画人伝・INDEX
文献:遠州画人伝