江戸後期における遠州地方の南画は、掛川藩お抱え絵師だった村松以弘によって始まったとされる。以弘は月僊に学び、その後上京して江戸の谷文晁に学んだと伝えられる。遠江画壇に大きな影響を与えた文晁門下には、他に三宅鴨渓、村松弘道、大橋享斎、小栗文明らがいる。そして、以弘門下には、大庭松風をはじめ、福田半香、平井顕斎、釈思玄、熊谷青城、小栗松靄、武田桜園、村松弘道らが出ており、福田半香、平井顕斎は後に渡辺崋山に学び、「崋山十哲」に数えられるほどの力量を蓄え、共に多くの門人を育てた。
三宅鴨渓(1794-1857)みやけ・おうけい
寛政6年磐田郡見付町生まれ。名は寅、字は希唐、通称は熊五郎、別号に緑个がある。江戸に出て谷文晁の門に学び、郷里に帰って風流三昧の生活を送った。鴨渓が編纂に係った『遠江名勝図』には、文晁、武清、椿山、隆古、半香、文一、桂叢らの筆による遠江名勝の真景十数葉を実写したものがあり、最後に鴨渓の大浦図一葉がある。同書には他に、芙蓉、山塘、省亭の詩文、秋巌の書、真淵の歌二首、依平の長唄などが収録されている。画家というよりも雅人として生き、安政4年6月、64歳で死去した。
村松弘道(1795-1862)むらまつ・こうどう
寛政7年生まれ。小笠郡和田岡村吉岡の人。通称は孫兵衛。原谷と号した。和歌をよくし、はじめ石川依平の門に国学を学び、当時の名士と往来した。また絵画は、はじめ村松以弘に学び、のちに江戸に出て谷文晁の門に学んだ。門人に大庭峰翠がいる。文久2年、68歳で死去。
大橋享斎(不明-不明)おおはし・きょうさい
磐田郡井通村森本の人。名は喜久、通称は紋太郎。谷文晁の門に学んだ。
小栗文明(不明-不明)おぐり・ぶんめい
浜名郡豊西村恒武の人。通称は良三郎。小栗松靄の家の分家にあたる。谷文晁の門に学んだ。
釈思玄(1786-1845)しゃく・しげん
天明6年久努村生まれの画僧。名は智鳳。石川清衛門の三男。法多山尊永寺の第十九世智盈上人について得度し、42歳で同寺の第二十一世になった。絵画は20歳の時に村松以弘について学び、村松以弘、福田半香、平井顕斎らと画会を開いた。弘化2年死去。
小栗松靄(1814-1894)おぐり・しょうあい
文化11年生まれ。浜名郡豊西村の豪農・小栗仁右衛門の長男。名は徳方、字は子直、通称は武右衛門。初号は木鶏・松斎、別号に青地、晴曠堂がある。16歳の時に村松以弘に学び、のちに福田半香に学んだ。明治27年死去。
熊谷青城(1819-1900)くまがい・せいじょう
文政2年生まれ。磐田郡西之島村の利右衛門の長男。字は子方、別号に全安、此君楼がある。幼児より絵を好み、はじめ村松以弘に学び、後に福田半香の門人となった。明治33年11月23日死去。
武田桜園(1814-1879)たけだ・おうえん
文化11年掛川生まれ。真宗広楽寺の住職で、名は慶曜、晩年は墨翁と号した。絵画ははじめ村松以弘に学び、のちに福田半香の門人となり、平井顕斎や喜多武清らの画法を研究した。明治12年2月年死去。
遠州(2)-画人伝・INDEX