江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

大洲藩御用絵師・若宮養徳とその門人

加藤泰恒・文麗親子から引き継がれた木挽町狩野の流れは、木挽町狩野七代・狩野養川院惟信に学んだ大洲藩絵師・若宮養徳と、その門人たちによって、伊予大洲の地に伝えられた。かれらの絵画は大洲藩主ゆかりの如法寺、曹渓院、八幡神社などの寺院や藩主たちの邸宅を飾った。養徳の木挽町狩野の画系は、子の晴徳、晴徳の門人でのちに養子になった勝流、勝流の子・勝岳、晴徳の子・勝鵾へと引き継がれ、連綿と大洲の地にもたらされていった。なかでも、晴徳は父の養徳に学んだ後、江戸に出て、木挽町狩野八代・狩野伊川院栄信の門に入り、以後、父に代わって大洲藩主泰幹に絵師として仕えた。

若宮養徳(1754頃-1834)わかみや・ようとく
宝暦4年頃に大洲若宮村の紺屋幸右衛門の二男として生まれた。別号に惟正、文流斎がある。無生とも称した。先祖は松山藩の士分だったが、大洲に移り住み染色を業とした。7、8歳の頃、紺屋の門口に貼り付けていた武者絵が六代藩主の目にとまり、城内で揮毫したところたいへんな賞賛を得たことにより、長州藩狩野派の林美彦(文流斎洞玉)について絵を学ぶことになったと伝えられる。その後、十代藩主の御用絵師となり、のちに木挽町狩野の門に入り、七代狩野養川院惟信について学んだ。盤珪禅師が開山した如法寺本堂の28枚からなる大襖群に描かれた「龍図」のほか、大洲地方の寺院に大作を多く残している。本人が作品に自署した行年書きがまちまちで享年が特定できず、生年がはっきりしないが、天保5年、81歳で死去したとする説が有力である。

宿茂稼暁(1798-1851)しゅくも・かぎょう
寛政10年生まれ。大洲の人。諱は正謙、通称は甚助。別号に樗庵がある。文雅を好み、若宮養徳に画を学んで大洲藩主泰幹に仕え、画では徳隣と号した。晩年は家業を長男に譲り、画業に専念し、文人墨客と交わった。嘉永4年、54歳で死去した。子に稼節、稼月がいる。

大橋文養斎(不明-1870)おおはし・ぶんようさい
大洲藩家老。名は英信。別号に後凋斎がある。若宮養徳の門人で、浮世絵風の画をよく描いた。65歳で五郎村に隠居し、茶道、陶芸、絵画を楽しんだ。明治3年死去した。

若宮勝鵾(不明-1907)わかみや・しょうこん
大洲の人。若宮晴徳の子。若宮三世といわれ、別号に正保、松徳、従容斎などがある。はじめ木挽町狩野に学んだが、橋本雅邦らと交わり画風が一変した。写生を基調とした画を描いた。明治40年死去した。子はなく若宮家は断絶した。

愛媛(4)画人伝・INDEX

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝