江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

平尾魯仙門下で三上仙年と双璧とされた工藤仙乙

工藤仙乙「七福神遊戯之図」正伝寺蔵

平尾魯仙の門人で、三上仙年と並び称されたのが工藤仙乙(1839-1895)である。仙乙は、幼いころから画を好み、長年魯仙の元で画を学び、その技量は三上仙年を凌ぐともいわれた。はじめは山水画を好み、諸国の奇勝を訪ね歩いていたが、無理がたたり病のため左足の自由を失い、途中で断念せざるを得なかった。その後は、古画の模写と師の魯仙の下図をもとに作画に励んだ。

ほかに、魯仙の影響を受けて自然万物に興味を持った佐藤蔀(1852-1944)は、考古遺物の実測図や植物図を多く描き、のちの考古学、植物学の先駆けとなった。郷土史研究家としても知られている。同じく直物画を得意とした山上魯山(1853-1929)は、一方で書画骨董の鑑識にも優れ、多くの作品を収集し、鑑賞会である「東日流会」に自身の収集品を披露して日本画の隆盛を図った。

山形岳泉(1852-1923)は、独自の作品は少ないが、魯仙の「異物図絵」をはじめ、魯仙の没後にも膨大の数の作品を粉本模写し、後世に伝えた。のちに北海道に渡った木戸竹石(不明-不明)は、漢画の技術によって山水画や花鳥画とともにアイヌを主題とする絵を描いたとされている。→「アイヌ絵の終焉後もアイヌを主題に描いた木戸竹石

工藤仙乙(1839-1895)くどう・せんおつ
天保10年弘前生まれ。津軽藩士紋次郎の子。本名は文司、字は長文。幼いころから画を好み、平尾魯仙に学んだ。魯仙門下では三上仙年と並び称された。領内の奇勝を行脚したが、病のため左脚の自由を失って、専ら古今の画譜と師に下図をもとに制作した。弟子に和田仙濤、工藤仙来がいる。明治28年弘前絵画会の副会長となったが、同年、56歳で死去した。

佐藤蔀(1852-1944)さとう・しとみ
嘉永5年弘前亀甲町生まれ。仙之と号した。通称は良太郎。孫に洋画家の佐藤正夫がいる。平尾魯仙に画を学び、魯仙の影響を受け、自然万物、特に植物に興味を持って山野を歩いた。明治18年中津軽郡公立中学校教員になった。のちに、蓑虫山人に出会い、考古学にも開眼し、県内各地で発掘採集し、青森県考古学界の草分けの一人といわれた。郷土史研究にも造詣が深く、古文献収集家でもあった。昭和19年、92歳で死去した。

山上魯山(1853-1929)やまのうえ・ろざん
嘉永6年弘前品川町生まれ。名は健吉、旧姓は今。成人して今家一族の山上家の養子となった。初号は仙室。幼いころから画を好み、明治8年晩年の平尾魯仙について学んだ。魯仙没後は三上仙年に教えを受けた。山野の草を観察してよく描いた。昭和4年、76歳で死去した。

山形岳泉(1852-1923)やまがた・がくせん
嘉永5年弘前生まれ。本名は太郎九郎。幼いころから画を好み、平尾魯仙に学んだ。明治12年魯仙の「異物絵図」を師命により模写。ほかにも「合浦山水観」「岩木山百景」「暗門奇勝」など膨大な数の作品を粉本模写し、後世に伝えた。大正12年、71歳で死去した。

青森(19)-画人伝・INDEX

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県近代日本画のあゆみ展、津軽の絵師、津軽の美術史、青森県史叢書・近現代の美術家