江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

津軽家一門から出た絵師・那須芝山と福島晁山

福島晁山「和歌三神図」弘前市高照神社蔵

弘前藩主は代々、文武両道を修めた教養人で、狩野派の絵を残しているが、同様に藩主の家系・津軽家一門の出身者にも優れた絵を残している人物がいる。その代表とされるのが、弘前藩八代藩主信明の従兄弟にあたる那須芝山と、弘前藩九代藩主寧親の家老津軽頼母の家に生まれた福島晁山である。

那須芝山(1759-1832)の父親は弘前藩七代藩主信寧の弟・好古で、芝山は、はじめ幸三郎といったが、名家・那須家の養子となって与市資明と改名、安永6年に家督を継ぎ、下野那須の旗本として交代寄合をつとめた。文化8年には隠居し、芝山と号して書画をはじめ、和歌、俳諧の世界に入った。藩主の家系に生まれ、名家・那須家を継いだだけに、多くの文人墨客と交流したと思われる。

芝山は、寛政3年に没した八代藩主信明の肖像画を、没後10年を経た享和元年に描いている。高位の人物の肖像画を近親者が描く例があり、それにしたがって制作されたもので、信明像の上部には輪王寺宮公澄法親王による賛が添えられている。

福島晁山(不明-不明)も、那須芝山と同じく津軽家一門の家系に生まれた。三代藩主津軽信義の第二子・伊左衛門信経を祖とし、名家老といわれた津軽頼母の長男の第二子で、本来は津軽姓だったが、父親が11代藩主順承を廃して隠居していた先代信順を復位させようとした事件の首謀者とみなされ、津軽姓を取り上げられたため、福島姓とした。この時、晁山は、野呂家に養子として入っていたが、のちに野呂家を去って復姓している。

晁山が誰に画法を学んだかは不明だが、谷文晁の絵を好み、松山雲章、百川学庵らと深く交わったという。「和歌三神図」(掲載作品)は、柿本人麻呂、玉津島明神、山部赤人を描いた絵馬で、慶応2年に高照神社に奉納された。書き添えは、藩の奥祐筆だった岩田恵直の80歳の時の筆で、奉納者は家老の西館宇膳源建哲である。

那須芝山(1759-1832)なす・しざん
宝暦9年生まれ。父親は弘前藩七代藩主信寧の弟。はじめ幸三郎と称し、のちに那須与市資虎の養子となって与市資明と改名した。安永6年跡を継ぎ、文化8年隠居して芝山と号した。別号に資山、静好舘、琴声、禅月などがある。書画、和歌、俳諧をたのしみ、佳作を残している。天保3年、73歳で死去した。

福島晁山(不明-不明)ふくやま・ちょうざん
弘前藩九代藩主寧親の家老津軽頼母の家に生まれ、周次郎と称した。頼母が一時福島姓を名乗ったときに野呂家に養子となったが、のちに野呂家を去って、福島晁山と称して画の道に入った。松山雲章や百川学庵と親しく交わったというが、画歴についてはわかっていない。高照神社に奉納された「和歌三神図」が残っている。

青森(11)-画人伝・INDEX

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史