大坂画壇での長山孔寅の活躍は、秋田で四条派が普及する導火線になったと思われるが、系統として円山四条派の絵画を秋田藩内に広めたのは、江戸で学んだ横手の柴田南谷らとされる。
柴田南谷(1802-1873)は、幼いころから画才があり、何歳のころかは不明だが、花輪(旧盛岡藩領)の川口月嶺とともに江戸に出て、円山四条派の鈴木南嶺に師事した。母の病気で画業半ばにして帰郷を余儀なくされたが、幕末の県南では第一人者の絵師だったと伝わっている。
南谷の画系は、子の楳溪、孫の松谷と続き、門人には角館の平福穂庵がいる。俳句もよくし、横手城代の戸村義通(後草園)に愛され、城中に寝泊りすることもしばしばあったという。
柴田南谷(1802-1873)しばた・なんこく
享和2年生まれ。本名は平次郎。江戸に出て鈴木南嶺に師事した。別号に豁庵、雪樵がある。俳号は一峰。人物、花鳥を得意とした。門人に平福穂庵がいる。明治6年、72歳で死去した。
柴田楳溪(1852-1922)しばた・ばいけい
嘉永5年生まれ。柴田南谷の子。本名は寅五郎、諱は治道。別号に何陋軒、対岳庵、半枯翁がある。父に手ほどきを受け、30歳で京都に上り、幸野楳嶺に師事した。同門に竹内栖鳳、菊池芳文、川合玉堂がいる。3年後に帰郷した。門下に手賀菘圃、桜井正澄、小松鳳来、竹村松嶺、実子の松谷がいる。大正11年、70歳で死去した。
柴田松谷(1890-1945)しばた・しょうこく
明治23年生まれ。柴田楳溪の子。名は治興。明治41年に京都美術工芸学校に入学、同校卒業後、京都絵画専門学校に入学した。その後、父と同門の川合玉堂に師事し、東京に住んだ。昭和20年、54歳で死去した。
秋田(18)-画人伝・INDEX
文献:横手・平鹿の美術 十五人集、秋田書画人伝