江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

狩野派の柳沢吉里と南蘋派の柳沢伊信

柳沢吉里「武田二十四将図」柳沢文庫蔵
中央上部に武田信玄、その下に信玄の主要な家臣を描いている。

柳沢吉保は、宝永6(1709)年に将軍綱吉が没すると、家督を子の吉里に譲り、以後は江戸駒込の六義園で隠居した。跡を継いだ吉里がのちに大和郡山に転封になったため、吉保・吉里父子の甲府における治世は20年余りに過ぎなかったが、この期間は近世における甲府の全盛期といえる。

甲府城の修復や殿舎の造営、城下町の整備が進み、現在の甲府市の街並みの基盤はこの時期につくられている。また、江戸下屋敷に造営した六義園や、甲府に建立した菩提寺の永慶寺には、吉保の思想や信仰が受け継がれている。

吉保は甲府城主となったのちも入城することなく、退隠後も別邸である六義園で過ごしたが、柳沢吉里(1687-1745)は家督を継いでから1年後には甲府城に入城した。吉里は民政に力を尽くし、穂坂堰(韮崎市)の開削、養蚕、葡萄の生産などを奨励し、地域の発展に貢献した。享保9(1724)年の国替により吉里の大和郡山転封が決まると、その仁政を慕った領民たちは深く悲しんだという。

父の吉保は、学問を重視し学芸にも関心を寄せていたが、作画をしたという話は伝わっていない。しかし、吉里は行政ばかりでなく、和歌の才に恵まれ、絵画においても狩野派の清水洞郁に学び、絵筆をとったことでも知られている。吉保の菩提を永慶寺廃寺後に弔った恵林寺には武田信玄の軍陣影を描いた作品が残っている。

転封により大和郡山藩主となった吉里は、財政難で寂れて暗かった城下町に活気を取り戻すため、下級武士たちに金魚の養殖と販売を奨励した。それまで富裕層や上級武士たちの間で飼われていた金魚を、庶民にまで普及させようとしたのである。これが大和郡山の金魚のはじまりとされる。

吉里の没後に大和郡山藩主を継いだ子の柳沢伊信(1724-1792)は、父以上に絵画に親しみ、好んで絵筆を握った文人大名として知られている。吉里が狩野派に学んだのに対して、当時「唐絵」と呼ばれた明朝画の様式に傾倒し、伝統的な花鳥画に西洋の写生画法を加味した画法を駆使し、隠居後は六義園に住んで「信鴻」の雅号で多くの作品を残した。

柳沢吉里(1687-1745)やなぎさわ・よしさと
貞享4年生まれ。柳沢吉保の子。大和郡山藩藩主。幼名は綱千代。実名は安睴、安貞とも名乗った。また、兵部とも称した。狩野派の絵師・清水洞郁に学んだ。宝永6年父吉保から家督を継ぎ甲府藩主になり、翌年甲府入城し、その時の様子を『甲陽驛道記』としてまとめている。享保2年には身延山方面に旅した様子を『やよひの記』として著した。享保9年大和郡山に転封し以後柳沢家は幕末まで同地を領した。和歌の才に恵まれ生涯2万首の歌を詠んだとされ『積玉和歌集』『潤玉和歌集』『続潤玉和歌集』などの歌集がある。延享2年、59歳で死去した。

右:柳沢伊信「牡丹錦鶏図」柳沢文庫保存会蔵
左:柳沢伊信「海棠芥子綬帯鳥図」神戸市立博物館蔵

柳沢伊信〔信鴻〕(1724-1792)やなぎさわ・これのぶ〔のぶとき〕
享保9年生まれ。柳沢吉里の四男。大和郡山藩藩主。名は義稠、のちに信卿。隠居後は信鴻と名乗った。延享2年父吉里の死去に伴い家督を相続。安永2年隠居し、六義園で隠居生活を送った。ほとんどの作品に制作年が記され、生涯にわたって日記に制作の関連事を記しているため、江戸時代の絵画活動を知るうえでも貴重な資料になっている。寛政4年、69歳で死去した。

山梨(02)-画人伝・INDEX

文献:柳沢吉保と風雅の世界、山梨「人物」博物館 甲州を生きた273人