江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

近代絵画としての南画の再生に尽力した松林桂月

松林桂月「愛吾廬図」山口県立美術館蔵

松林桂月(1876-1963)は、渡辺崋山や椿椿山の系流につながる野口幽谷に師事し、江戸期以来の崋椿系南画の系統を受け継ぎながらも、近代における南画の有り様を模索し続けた。文展開設後は、大会場に見合うスケールを持った雄大な山水画や花鳥画を発表、文展、帝展、日展で受賞を重ね、昭和33年には文化勲章を受章した。その翌年には日本南画院を結成して会長に就任、近代絵画としての南画の再生に尽力した。ほかに文展、帝展、日展に出品した山口出身の日本画家としては、幼くして叔父の河北道介に油画を学び、のちに野口小蘋に師事した兼重暗香(1872-1946)、狩野派や四条派などの折衷的な画風を確立した伊藤響浦(1883-1960)、松林桂月門下で伝統を生かしながら現代感覚を盛り込んだ西野新川(1912-2008)、堂本印象に師事し日展に出品した澤野文臣(1914-2005)らがいる。

松林桂月(1876-1963)
明治9年萩市生まれ。伊藤篤一の二男。本名は篤。白水尋常小学校を卒業後、阿武郡明木村の役場に就職するが、同村出身の貴族院議員・滝口吉良の援助を受けて上京、19歳で野口幽谷の門に入った。漢学の素養を生かした個性的な画風で、大正・昭和の南画壇で活躍した。大正8年帝展の審査委員となり、昭和12年帝国芸術院会員、昭和19年帝室技芸員となった。戦後も南画界の重鎮として活躍、昭和33年文化功労者となり文化勲章を受章、翌年日本南画院を結成して会長に就任した。萩市内の諸事業に多額の私財を投じたほか、母校の白水小学校に講堂建設費や作品などを寄付し、昭和36年萩市の名誉市民に推挙された。昭和38年、88歳で死去した。

兼重暗香(1872-1946)
明治5年山口市生まれ。本名は梅子。はじめ叔父の河北道介や本多錦吉郎に洋画を学び、その後野口小蘋に学び、日本画に転向。文展、帝展などに出品した。昭和21年、75歳で去した。

中倉玉翠(1874-1950)
明治7年生まれ。橋本雅邦に師事した。はじめ国画玉成会に参加、その後は文展に出品した。昭和25年、77歳で死去した。

伊藤響浦(1883-1960)
明治16年下関市生まれ。別号に陽康がある。山内多門、川合玉堂に師事、美術研究精会、巽画会、二葉会に出品、大正初年からは文展に出品した。大正13年南画に転じた。昭和35年、78歳で死去した。

楢崎鉄香(1898-1959)
明治31年生まれ。名は東策。別号に真如洞がある。橋本関雪に師事し、京都に住んだ。大正から昭和にかけての新しい時代表現を意識した制作をし、帝国展に出品した。昭和34年、62歳で死去した。

西野新川(1912-2008)
明治45年宇部市生まれ。21歳の時に上京し松林桂月に師事、桂月没後は児玉希望に学んだ。戦後は日展を活動の場とした。国画水墨院名誉会長などをつとめた。平成20年、96歳で死去した。

澤野文臣(1914-2005)
大正3年徳山市生まれ。京都絵画専門学校卒業。堂本印象に師事。文展、帝展、日展に出品した。平成17年、90歳で死去した。

山口(15)-画人伝・INDEX

文献:山口県の美術、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで