江戸末期から明治期にかけて、伝統的な狩野派に西洋画の技法を取り入れ、新しい日本画の創造に情熱を注いだ狩野芳崖(1828-1888)は、長府藩御用絵師の家系に生まれた。長府藩狩野家の祖は、毛利綱元に江戸で仕えた大月喜兵衛・狩野與六(不明-1695)とされ、剃髪して洞晴幸信と号した。洞晴幸信の子・洞学幸信も、最近の研究によると不確実ではあるが長府藩御用絵師をつとめたとされる(※1)。狩野芳崖の曽祖父・狩野察信(1695-1759)は洞学幸信の二男で、木挽町如川周信に学び、長府に住んで七代藩主・師就に仕えた。察信の名跡を継いだ狩野俊信(1729-1822)は、察信の長女と結婚し、木挽町栄川院典信に学び、萩藩の御用絵師となり、長澤榮州と号した。その跡を継いだのは、察信の子・狩野陽信(不明-1806)で、陽信の長男が芳崖の父・狩野晴皐(1797-1867)である。晴皐は父・陽信が死去したため10歳で家督を継いだ。幼い晴皐は、諸葛函溪(1780-1848)の後見で成長したとみられる(※2)。晴皐の子として生まれた芳崖は、幕末の狩野派の衰退のなか、フェノロサと出会い、新しい日本画を創造していくこととなる。
(※1)狩野洞学に関しては、いままでの資料には作州津山藩に仕えたとあるが、『没後百年 狩野芳崖展図録』によると「最近の研究で、元禄期頃とおぼしき長府藩の分限帳に洞学幸信の名がみえ、大雲山日頼寺の什物のなかに洞学幸信の作品が発見されるなど、長府藩の御用絵師だった可能姓も出てきた」とある。→参考:美作津山藩の初代御用絵師・狩野洞学
(※2)諸葛函溪は狩野陽信の養子となるが、晴皐が生まれたため別家、諸葛姓を名乗った。→参考:周防・長門国各藩の狩野派
狩野芳崖(1828-1888)
文政11年長府町印内生まれ。長府藩御用絵師・狩野晴皐の子。幼名は幸太郎、別号に貫甫、皐隣、翠庵などがある。幼いころから画才を発揮し、19歳の時に江戸に出て、木挽町狩野10代・狩野勝川院雅信について10年間修業した。多くの門弟の中でも画技に優れ、橋本雅邦(1835-1908)とならんで雅信門下の双璧と謳われた。その頃の芳崖は、独創性を発揮しすぎ、師から破門されかかったこともあったが、一方で師からの信頼も厚く、幕府御用の助手もしばしばつとめている。古典も自らの目で選んで研究した結果、傾倒したのは室町時代の狩野派ではなく、雪舟だった。この頃、狩野派の法外に出る決意で「芳崖」と改号したとされる。幕末の動乱期には、不安定な生活を余儀なくされ、故郷の長府にもどり画業に専念しようとしたが、一時は描くことを中止して武具の制作に従事したこともあった。明治になり、狩野派は幕府の倒壊とともに廃れ、藩からの扶持が絶たれたため、画業のかたわら養蚕や測量図の仕上げなどをして生活していたが、貧困はつのるばかりだった。明治10年、50歳の時に同郷の友人・藤島常興(1828-1898)を頼って上京したが、東京での生活も改善はされず、やがて健康を害して闘病と生活苦の中で制作していた。明治15年、内国絵画共進会に8点の作品を出品するが無賞に終わった。しかし、芳崖の個性的な作品を、当時帝国大学で哲学の講義をしていたアメリカ人のアーネスト・フェノロサが見出し、その後はフェノロサとの共同事業により、新しい時代にふさわしい指標となる日本画を生み出していくことになる。また、フェノロサと岡倉天心が関与していた美術学校の開校準備にも関わり、時の首相で山口県人の伊藤博文(1841-1909)を説得して東京美術学校の創設にこぎつけたが、開校を目前にしながら、「慈母観音」を絶筆に、明治21年、61歳で死去した。
狩野晴皐(1797-1867)
安永8年生まれ。通称は蔵槌、薫信。別号に松隣、環翠斎がある。長府藩御用絵師。狩野陽信の子。木挽町狩野伊川院に学んだ。祖父の察信の頃から長府藩の絵師をつとめ、父の陽信も松隣と号して藩の絵師をつとめた。元治元年に長州藩が攘夷戦に敗れ、英・米・仏・蘭の四カ国と講和条約を結んだ際に、高杉晋作らの一行に絵図係として加わったという記録も残っている。鋳金や彫刻にも優れ、特に刀剣の研磨を得意とした。門人に藤島常興、諸葛信道らがいる。慶応3年、71歳で死去した。
山口(4)-画人伝・INDEX
文献:山口県の美術、没後百年 狩野芳崖展