雲谷派のはじまりは、長州藩を治めていた毛利輝元が、原治兵衛直治(のちの雲谷等顔)に雪舟のアトリエだった雲谷庵と雪舟筆「山水長巻」を与え、雪舟流の正統を継ぐように命じたことに起因する。等顔は狩野派を学んだ絵師だったが、雲谷庵の拝領と同時に、わずかに命脈を保っていた長州における雪舟画風の復興を志した。父に従って萩に移った等顔の二男・雲谷等益(1591-1644)も、父を手伝いながら画技を磨き、萩城建設や江戸毛利藩邸増築に父とともに携わった。元和4年に等顔が没すると、等益自ら宗家となり、亡き兄・等屋の長男・雲谷等的(1606-1664)にも一家を構えさせ、雲谷家を二家とした。さらに、等益は雲谷派分家の成立に尽力し、二男・雲谷等爾(1615-1671)、三男・雲谷等哲(1631-1683)、さらに等的の二男・雲谷等宅(不明-1683)、三男・雲谷等作(1615-1671)にも一家を構えさせ、雲谷家は等益没後に一時七家となり、のちに六家におちついた。雲谷派はその後も世代を重ね、斎藤、三谷、波多野、津森、栗栖、長冨など萩藩分藩における雲谷派分家の成立や、一部雲谷家の廃絶など、多少の変遷を経ながら幕末まで続いた。
雲谷等顔(1547-1618)
天文16年肥前国藤津郡生まれ。能古見城主・原豊後守直家の二男。名は直治、通称は治兵衛、法躰として容膝と号した。はじめ狩野永徳あるいは松栄について絵を学んだと伝えられる。文禄2年頃に主君であった毛利輝元より雪舟の旧居雲谷庵と雪舟筆「山水長巻」を授けられ、雪舟流の継承者を命じられた。京都にもたびたび赴き、東福寺や大徳寺の塔頭である黄海院、龍光院、看松庵、碧玉庵などに襖絵を制作した。慶長16年法橋に、晩年には法眼に叙せられた。元和4年、72歳で死去した。
雲谷等益(1591-1644)
天正19年広島生まれ。雲谷等顔の二男。名は元直。若いころは宮法師と称し、のちに治兵衛と名乗り、また友雪とも号した。長兄の等屋の早世により雲谷宗家を継承し、雪舟四代を唱えた。周防・長門を中心に活動したが、大徳寺内の塔頭である瑞源院、見性庵、大源庵、大慈院、清泉寺、碧玉庵などに襖絵を制作するなど、京都においても精力的に活動した。寛永3年法橋に叙せられた。正保元年、53歳で死去した。
雲谷等的(1606-1664)
慶長11年広島生まれ。雲谷等屋の長男。幼名は於又丸、名は元明。父が没して萩に引き取られ、叔父である等益の指導を受けた。元和4年兵部少輔に任じられ一家を構え、寛永19年法橋に叙せられた。寛文4年、59歳で死去した。
雲谷等爾(1615-1671)
元和元年生まれ。雲谷等益の二男。幼名は武蔵、名は直行、別号に雪景、澹溪がある。寛永14年までに一家を構え、同16年に法橋に叙せられた。高野山安養院の障壁画制作が知られるほか、明暦元年には兄・等与、斎藤等室とともに禁裏造営に参加した。常ノ御所中の棚ノ間に「牡丹」を描いた。寛文11年、57歳で死去した。
雲谷等哲(1631-1683)
寛永8年生まれ。雲谷等益の三男。別号に三玄がある。毛利秀就の時代に召し出されて一家を構え、承応2年法橋に、天和2年には法眼に叙せられた。罪を犯し、天和3年逼塞中に、53歳で病死した。
雲谷等宅(不明-1683)
広島生まれ。雲谷等屋の二男。幼名は千代之助、通称は市郎兵衛。父の没後、兄の等的や弟の等作とともに萩に引き取られ、叔父である等益の指導を受けた。法橋の位を得て、70歳くらいで死去したと伝えられる。
雲谷等作(1615-1671)
元和元年広島生まれ。雲谷等屋の三男。通称は小兵衛。父が没して萩に引き取られ、叔父である等益の指導を受けた。寛永14年頃までに別家を建て、その後法橋に叙せられた。寛文11年、57歳で死去した。
津森等為(不明-1686)
通称は茂兵衛。雲谷等☆(☆は「王」+「番」)に師事した。師が藩に請願して一家を成した。貞享3年死去した。
山口(1)-画人伝・INDEX
文献:山口県の美術、防長人物誌