代々の庄内藩主は、教養として画法を学び、狩野派風の作品を多く残している。藩主に絵を教えた庄内藩の絵師は、初代御用絵師の家系・三村家が三代で終わり、当時若殿だった第6代藩主忠温の相手として青山盛竺が選ばれた。この盛竺には子がなく、次に狩野裕清の弟子・大縄治助が継ぎ、さらに宝暦6年には鹿島探春が召し抱えられ、その後は鹿島家が代々酒井家の絵師をつとめた。
第7代藩主忠徳は、藩の財政を建て直し、農政・文武振興、子弟教育などに意を尽くした君主で、俳諧、和歌をよくし、自ら鷹書を筆写している。第8代藩主忠器は、養蚕業の振興などを中心とした殖産興業の奨励に務め、天保の大飢饉では救済に尽力した。数は少ないが優品を残している。
第9代藩主忠発も、鹿島家に師事して絵をよくした。掲載の「琴高・乗鶴仙人図」は、琴高仙人と乗鶴仙人を描いたものだが、背景の山や雲にはブレたような稚拙ともとれる描写がみられ、それがかえって殿様の絵画らしい不思議な魅力をただよわせている。
酒井忠発(1812-1876)さかい・ただあき
文化9年生まれ。庄内藩第9代藩主。酒井忠器の長男。幼名は小五郎、号は豊山。天保13年父の隠居により家督を相続。天保15年印旛沼疎水工事を命じられ、嘉永2年から洋式砲術の調練をはじめ、嘉永6年庄内海岸の警備を固めた。安政6年蝦夷地警備を命じられ、翌年より派兵、殖民につとめた。文久元年隠居。明治9年、65歳で死去した。
山形(12)-画人伝・INDEX
文献:お殿様の遊芸、鶴岡市史(上巻)