江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

庄内地方の南画家

左:伊東梅月「蓬莱之図」、右:佐藤梅宇「孔子像」

庄内藩では、藩の絵師のほかに絵をたしなむ藩士が多かった。石井子龍は、絵を同藩の氏家龍渓に学び、のちに藩医で書家でもあった重田道樹に学んだ。生涯酒を好んで奇行が多かったとされ、金峯山麓の渓流の上に庵を結び、大自然のなかに起居して独自の画風を完成させたという。

同じく庄内藩士の佐藤梅宇と重田蘭渓は、江戸出府を利用して谷文晁の門に学んだ。梅宇は、梅の絵をよくし、歌人池田玄斎の命名によって「梅宇」と号した。琴も巧みで藩主酒井忠発の信用を得て、多くのすぐれた絵画を描いた。蘭渓は、江戸で医学を修め、彫刻も巧みだった。

庄屋の家に生まれた伊東梅月は、白崎文錦堂の養女となり、氏家龍渓、筒井雲泉に学んだのち、江戸に出て谷文晁に師事した。和歌、俳諧にも長じ、古今まれにみる才女といわれたが、江戸において33歳で死去した。

石井子龍(1778-1842)いしい・しりゅう
安永7年生まれ。庄内藩士・吉井丑次郎の二男。御近習石井孫七郎の養子となって石井家を継いだ。通称は幸右衛門、諱は張昌。別号に龍眠、為龍がある。幼いころは武術に励んだが、25歳頃から画を志し、藩校致道館の司書で書画に高名だった氏家龍渓に師事しようとしたが、筆技が拙かったことで叶わず、それに発奮し、書家の重田道樹について約5年間書を学び、ついに画法の妙理を悟ったという。のちに金峯山麓、新山の木立に包まれた渓流の上に庵を結び、幽澗亭と名づけ、常に腰に瓢をさげて酒をたしなみ、大自然のなかに起居し、子龍独特の画風を完成させた。天保14年、66歳で死去した。

重田蘭渓(1799-1857)しげた・らんけい
寛政11年生まれ。庄内藩士・酒井次郎右衛門の弟。父重太は小寺後素に学んで絵をよくした。幼いころから金峰山南頭院に弟子入りして鶴岡金注連清水寺の僧となったが、のちに還俗した。その後江戸に出て医学を修め、谷文晁の門人・谷文昇に学び、また彫刻も巧みだった。後年は狩野探淵の門に入って神田白壁町に住んで画業に専念した。安政4年、59歳で死去した。

伊東梅月(1814-1846)いとう・ばいげつ
文化11年酒田生まれ。酒田外野町の内町組大庄屋伊東伝内の娘。白崎文錦堂の養女となった。本姓は佐藤。夫は鋳物師を業とし大和屋と称した。幼いころから絵を好み、はじめ鶴岡の氏家龍渓、酒田の筒井雲泉に学んだが、文政5年ころ養母を伴って江戸に上り、絵を描いて生活した。この間谷文晁に師事して花鳥、人物、山水を得意とした。天保5年の帰郷の際に江戸で開催された送別の画会には700人の出席者があったという。翌6年には鶴岡の禅竜寺で旧師氏家龍渓の画会を主宰した。弘化3年、江戸において33歳で死去した。

佐藤梅宇(不明-1857)さとう・ばいう
飽海郡荒瀬郷生まれ。大庄屋佐藤源内の子。幼いころから絵を好み、長じて谷文晁に学んで花鳥人物を得意とした。特に梅の絵をよくし、歌人池田玄斎の命名によって梅宇と号した。庄内藩の島役人として飛島に渡った。「飛島図絵」「孝貞照鑑図絵絵巻」などの作品が残っている。安政4年死去した。

山形(13)-画人伝・INDEX

文献:鶴岡市史(上巻)、酒田市史史料篇第7集、郷土日本画の流れ展、酒田市立資料館開館20周年記念図録、新編庄内人名辞典

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