江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

紀伊の狩野派・岩井泉流

岩井泉流「布袋図」

岩井泉流は、江戸で活躍した紀伊藩の狩野派の画家で、師系は定かではないが、江戸木挽町に関わりがあったとみられる。紀伊藩のお抱え絵師だったが、解雇され、大坂の堺での町絵師を経て、また紀伊藩に戻ったという経歴がある。資料によると、画技は確かだったが、酒を好み、身を持ち崩していたらしい。泉流の作品は、和歌山県内の寺社などに比較的多く残っており、丹生都比売神社「繋馬図絵馬」や、紀三井寺本堂の天井画「龍図」などが知られている。

岩井泉流(1714-1772)いわい・せんりゅう
正徳4年生まれ。名は貞行、のちに久宗と改めた。江戸の具足師の子。師系は定かではないが狩野派の画をよくした。紀伊藩六代藩主の徳川宗直に御絵師に登用され、のちに御針医並となるが、一時解雇される。のちに再び御針医並となり、さらに御近習にもなった。一時解雇になった経緯は不明だが、この間に大坂の堺へ行き、町絵師として活躍していたという。明和9年、59歳で死去した。

『紀州郷土藝術家小傳』によると、泉流は酒を好み酒代に窮することが多く、その為に鹿画を濫作して小銭を得たりして、酷評され名声を失墜させたこともあったという。島津家が新屋を造営する際には壁画の制作を依頼され、新築の大広間三面に一面荒縄を縦横に描き、ところどころに鳴子を配し、すみずみに少しばかしの稲と5、6羽の雀を描き上げた。その出来栄えはまた格別で、多くの報酬を得たが、そのことにより驕り、度を過ぎた贅沢に溺れ、身を持ち崩したという。泉流の一派とされる画家が『紀州郷土藝術家小傳』に数名掲載されている。

岩井養月(不明-不明)いわい・ようげつ
紀伊の人。岩井泉流の一派と考えられる。南紀徳川史に名前が記されている。

岩井宗泉(不明-不明)いわい・そうせん
岩井泉流を継ぐもので、堀端養恒笹川遊原らとともに紀伊藩の絵師だった。

岩井宗雪(不明-不明)いわい・そうせつ
名は芳昌。岩井宗泉の後継者とみられる。

岩井宗繁(不明-1876)いわい・そうはん
泉流の末裔で、岩井宗雪の子。代々藩の御絵師。明治9年死去。

和歌山(2)画人伝・INDEX

文献:紀州郷土藝術家小傳