江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

里見米菴ら院展に出品した富山の日本画家

里見米菴「海口裏街」

里見米菴(1898-1993)は、富山県射水郡小杉町(現在の射水市)に生まれ、高等小学校卒業後に16歳で上京し、鈴木赤城の内弟子となり、川合玉堂門下の井澤蘇水らに日本画を学んだ。その後、赤城門を出て舞台の背景画を描いたり、喜劇俳優をしていたが、21歳の時に兵役のためいったん帰郷した。

帰郷中に高岡国泰寺の佐竹龍水管長のもと3年間禅の修業に励み、さらに京都嵯峨の天龍寺山内慈済院に預けられ、その間に京都市立絵画専門学校に入学、また、土田麦僊の山南塾に入塾して学び、麦僊没後は、同郷の郷倉千靱に師事した。院展では、昭和17年から出品し、昭和50年に特待に推挙された。

ほかに院展に出品した同時代の富山の日本画家としては、郷倉千靱に師事した三村石邦(1903-1997)、安田靫彦に師事した豊秋半二(1907-1992)、尾竹越堂に師事した藤田安正(1901-1964)、小林古径に師事した坊坂倭文明(1912-1993)らがいる。また、文展系の石崎光瑤に師事した栗山弘演、山田武嗣ものちに院展に出品している。

里見米菴(1898-1993)さとみ・べいあん
明治31年富山県射水郡小杉町(現在の射水市)生まれ。大正2年上京して鈴木赤城の内弟子となり井澤蘇水らに師事。大正7年兵役のため帰郷。大正12年京都市立絵画専門学校に入学。また、土田麦僊の山南塾に入塾した。昭和2年京都絵画専門学校卒業、昭和7年同校研究科修了。昭和9年第15回帝展に初入選。昭和17年第29回院展に初入選し、その後も院展に出品を続け、昭和50年特待に推挙された。昭和25年からは郷倉千靱に師事した。平成5年、95歳で死去した。

三村石邦(1903-1997)みむら・せきほう
明治36年高岡市生まれ。名は常吉。祖父の石峰、長兄の石鳳も日本画家。大正9年金沢逓信教習所卒業後に名古屋逓信局庶務課に勤務したが、大正13年に退職して上京、翌年郷倉千靱に師事した。昭和3年第15回院展に初入選、翌年の第16回院展も入選した。昭和14年東京商業学校図画及び習字科教員に就任。同年第26回院展に入選し院友に推挙され、以後も院展に入選を重ね、昭和27年第37回院展で奨励賞を受賞した。昭和31年大和富山店・高岡市立美術館で個展開催。昭和36年千靱の助手として京都東本願寺婦人会館の壁画制作に携わり、昭和40年の大阪四天王寺講堂の壁画制作でも助手をつとめた。昭和43年日本美術院特待に推挙された。平成9年、94歳で死去した。

豊秋半二(1907-1992)とよあき・はんじ
明治40年下新川郡朝日町生まれ。本名は半次。18歳で結核を患い病床で絵を始め、25歳頃に全快して本格的に画事を志し、昭和10年に安田靫彦に師事し、一時書生となった。昭和19年富山に一時帰郷し、その後京都に出た。昭和21年第31回院展で初入選。以後入選を重ね、第40回展で奨励賞、第41回展で日本美術院次賞を受賞し院友に推挙されたが、昭和35年に院展を離れ、その後は個展を中心に活動した。大徳寺障壁画などを手がけた。平成4年、85歳で死去した。

藤田安正(1901-1964)ふじた・やすまさ
明治34年富山県生まれ。尾竹越堂に師事した。昭和8年再興第20回院展で初入選。昭和11年第23回院展、昭和13年の第25回院展にも入選。高岡市美術館に「草薙の図」が収蔵されている。昭和39年、63歳で死去した。

坊坂倭文明(1912-1993)ぼうさか・しずあき
大正元年富山県生まれ。小林古径に師事した。昭和18年第30回院展で初入選。以後入選を重ね、昭和23年院友に推挙された。昭和26年第36回展をはじめ、第39回展、第41回展、第47回展、第49回展で奨励賞を受賞した。日本美術院特待。平成5年、81歳で死去した。

富山(25)-画人伝・INDEX

文献:郷土の日本画家たち(富山県立近代美術館)、1940年代 富山の美術、県展の草創期に活躍した作家たち、現代美術の流れ[富山] 、「里見米奄 三村石邦 富山芳男」展、高岡市美術館所蔵品図録 2011年度版、20世紀物故日本画家事典、日本美術院百年史7・8巻