江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

稲垣碧峰ら幕末・明治期の富山の南画家

稲垣碧峰「桐花菊之図」

稲垣碧峰(1813-1879)は、富山城下舟橋今町(現在の富山市)の造り酒屋に生まれ、京都に上り貫名海屋に書を、浦上春琴に画を学んだ。当時、田能村竹田に有能な弟子を訪ねられた春琴は、将来大成して新機軸を打ち打すのは碧峰だろうと答えたという逸話が残っている。帰郷後は家業を継ぎ、32歳で町年寄りに推挙されたが、俗事を嫌い、これを辞して書画の道に没頭したという。

ほかに幕末明治期に活躍した富山出身の南画家としては、専琳寺の住職で山本梅逸に師事した渡辺香岳院(1802-1886)、沈南蘋の画風を学び、精巧は筆致の花鳥画を得意とした上野雪岳(不明-1894)、狩野派を学んだあとに南画に転じた藤田呉江(1828-1885)、長崎で鉄翁祖門に学んだ石川呉山(1844-1917)らがいる。

稲垣碧峰(1813-1879)いながき・へきほう
文化10年越中国舟橋今町(現在の富山市)生まれ。名は克、字は子復、通称は藤兵衛。書を貫名海屋に、画を浦上春琴に学んだ。のちに町年寄に挙げられたが、俗事を嫌い、これを辞退して隠居し、専ら読書および書画に耽った。たびたび京都に出て田能村竹田、山本梅逸、頼三樹三郎らと交友した。書家の加藤竹荘は実弟。稲垣師竹は二男。明治12年、67歳で死去した。

渡辺香岳院(1802-1886)わたなべ・こうがくいん
享和2年富山生まれ。名は法秀。専琳寺の住職。詩歌をよくし、茶道、花、香、盆景などに長じた。水上源淵、山本梅逸らに画を学び、着色花鳥画を得意として、端正で華麗な南画を描いた。明治3年、富山で起こった廃仏毀釈の事件(合寺事件)では、単身東京へ嘆願に行くなど、仏教擁護に力をそそいだ。明治19年、84歳で死去した。

上野雪岳(不明-1894)うえの・せつがく
文化年間頃越中八尾の生まれと伝わっている。山本梅逸に師事し、師からも高く評価されたといわれる。沈南蘋の画風を学び、精巧は筆致の花鳥画を得意とした。渡辺崋山とも交わったという。明治27年死去した。

藤田呉江(1828-1885)ふじた・ごこう
文政11年富山生まれ。富山藩士。名は憲、字は憲章。幼いころから学問を好み、江戸で藤森天山の門に学び、藩校広徳館の教授となった。画ははじめ狩野派の画法を学び、のちに南画に転じた。廃藩後は文墨にふけり、よく墨画を描いた。明治17年に東京で行なわれた絵画共進会の審査官をつとめた。明治18年、59歳で死去した。

石川呉山(1844-1917)いしかわ・ござん
弘化元年富山城下鹿島町生まれ。名は熊太郎。別号に逸翁、潤川がある。長崎で鉄翁祖門に南画を学んだ。清国に渡航して各地を遊歴した。大正6年、73歳で死去した。

富山(06)-画人伝・INDEX

文献:稲垣碧峰とその師友、 富山の文人画展