江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

鳥取画壇の祖・土方稲嶺、鯉の名手と謳われた門人の黒田稲皐と小畑稲升

土方稲嶺「麝香花下悠々之図」

鳥取画壇の祖と称される土方稲嶺(1741-1807)は、鳥取に生まれ、江戸に出て宋紫石の門に入り南蘋派を学んだ。のちに京都に移り、一説には円山応挙に師事したとされる。寛政10年に鳥取藩絵師として召し抱えられ、58歳で帰郷した。大画面の構成にすぐれ、写実性と装飾性の調和に創意を凝らし、生物の一瞬の動作をとらえた作品や、南画風の山水図を多く残した。稲嶺に写生画法を学んだ黒田稲皐(1787-1846)は、鯉を得意とし、鯉を描いては師の稲嶺に匹敵する名手とされた。また、稲皐に学んだ小畑稲升(1812-1886)も鯉の絵をよく描いた。稲嶺の家系は、子の土方稲林(1796-1859)、孫の土方稲洋(不明-不明)へと続き、稲皐の家系は甥の黒田稲観(不明-不明)に受け継がれた。稲観は画をよくしたが、若くして没した。

土方稲嶺(1741-1807)
寛保元年生まれ。字は子直、名は廣邦、のちに鳥取藩御用絵師になってから廣輔と改めた。初号は虎睡軒。鳥取藩の家老・荒尾志摩の家臣・土方弥右衛門の子。幼いころから画を好み、沈南蘋の画風を慕って江戸に出て宋紫石の門に入った。門人の中でも右に出るものがなかったという。のちに京都に移住し、粟田宮家に仕えた。寛政10年帰郷し、藩御用絵師となったが、寛政12年には江戸詰を命じられた。没年にいたるまで制作を続け、画題、技法ともに幅広く、鳥取画壇の祖と称された。子に稲林がいて、跡を継いで藩の絵師となった。高弟に黒田稲皐がいて、画系を受け継いだ。文化4年、67歳で死去した。

左:黒田稲皐「群鯉図」、右:小畑稲升「月下飛鯉図」

黒田稲皐(1787-1846)
天明7年生まれ。名は文祥、通称は六之丞。初号は稲葉。幼いころから画を好み、土方稲嶺について写生画を学んだ。弓馬、刀槍、水練など、武芸全般に長じ、藩主・池田仲雅に仕えた。仲雅没後は画業に専念し、家に鷹を飼い、池に鯉を放してその生態を観察し、写生をした。特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と称された。甥の稲観、小畑稲升が画系を受け継いだ。弘化3年、60歳で死去した。

小畑稲升(1812-1886)
文化9年鳥取市吉方生まれ。名は広助、のちに成章。初号は五石。幼いころから画を好み、鯉の名手と謳われた黒田稲皐に師事し、自身も鯉を得意とした。弘化2年鳥取城二の丸造営の時、新殿に屏風などを描き、翌年は京都に出て中林竹洞のもとで修行し、その年の冬、藩御用絵師に取り立てられた。嘉永5年には画道修業のため3年間江戸に出た。晩年は岩美町荒金に住み、明治19年同地において、75歳で死去した。

鳥取(4)-画人伝・INDEX

文献:藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画、鳥取縣書画百藝名人集