阿波の岸派としては、岸八行(1794-1857)、三木恒山(1811-1891)が京都に出て岸駒に学び、師にならい虎の画を得意とした。二人とも阿波に戻り、郷里で門人を育てている。八行の門からは浄徳寺の僧・鳥羽雲明、さらに雲明の門からは大串芦月、岡本雲晴らが出ている。恒山の門からも、子の春暉、松嶺をはじめ多くの門人が出ている。
三木恒山(1811-1891)みき・こうざん
文化8年生まれ。海部郡牟岐の人。一時徳島富田定普請町に住んだことがあるが、のちに小松島坂野に移り住んだ。名は左源太、または正恒。幹姓も使った。三木道碩の五男。16歳で京都に出て医学を学んだが、天保5年に岸駒に入門、20年間研鑚を積み、医業を廃して画に専念した。駿河、中国地方を遊歴して画技を磨いた。花鳥人物に優れていたが、特に虎の画を得意とし、阿波画壇では「虎の恒山」と称された。岸竹堂、原在泉らと交友があった。明治17年の内国絵画共進会に出品して褒賞を得た。明治24年、81歳で死去した。
岸八行(1794-1857)きし・はっこう
寛政6年生まれ。板野郡鍛冶屋原の人。名は六郎。京都に出て岸駒に入門、師より岸姓を許された。旧姓は不明。師にならって虎の画をよく描いた。安政4年、64歳で死去した。
阿部北涯(不明-不明)あべ・ほくがい
名は郷三郎。岡田竹涯・三木恒山らの師。安政年間の画人だが経歴は不明。
鳥羽雲明(1818-1880)とば・うんめい
文政元年生まれ。僧名は宗肝。板野郡高志の浄徳寺第11世住職。幼い頃から画を好み、鍛冶屋原の岸八行に学び、門下でも特に優れていた。さらに京都に出て霊山別院に寓して技を磨いて大成した。岸派で仏画も優れているが、花鳥、人物も得意だった。讃岐の勝覚寺に画を描きに行き、旅先で没した。明治13年、63歳で死去した。
大串芦月(1825-1887)おおぐし・ろげつ
文政8年生まれ。名は歓次郎、板野郡吉野町五条本郷の人。馬術を藩の師範・岩田七左衛門に学んだ。また画を好み、鳥羽雲明に入門して岸派を学び、岸連山、岸竹堂、長谷川玉峰らの画風を学んだ。明治20年、63歳で死去した。
岡本雲晴(1850-1896)おかもと・うんせい
嘉永3年生まれ。板野郡鍛冶屋原の人。名は茂与吉。慶応2年より鳥羽雲明に師事、雲明没後は矢野誼軒に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。北海道に転出して、のちに奈良県に移った。明治29年、47歳で死去した。
藤岡柳村(1838-不明)ふじおか・りゅうそん
天保9年生まれ。名は益蔵。那賀郡島尻の人。三木恒山、阿部北涯に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。
工藤華章(1845-1919)くどう・かしょう
弘化2年生まれ。徳島富田の人。名は左門太。三木恒山に師事した。大正8年、75歳で死去した。
岡田竹涯(1850-不明)おかだ・ちくがい
嘉永3年生まれ。小松島坂野の人。名は浜次郎。三木恒山、阿部北涯に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。
三木春暉(1852-不明)みき・しゅんき
嘉永5年生まれ。海部郡牟岐の人。三木恒山の長男。名は正晴。画を父に学び、京都でも学んでいる。明治17年の内国絵画共進会に出品。
三木松嶺(1854-1922)みき・しょうれい
安政元年生まれ。三木恒山の娘。名はトラ、または虎子。画を父に学んだ。徳島師範学校に勤務した。明治17年の内国絵画共進会に出品。大正11年に死去した。
梅岡蒿亭(1860-不明)うめおか・こうてい
万延元年生まれ。名は発太郎。徳島住吉島藩士・梅岡為次の子。明治10年より4年間矢島董文に学び、その後三木恒山に学んだ。明治17年の内国絵画共進会に出品。
徳島(15)-画人伝・INDEX
文献:阿波の画人作品集、阿波の画人作品二集、阿波画人名鑑