江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

徳島藩御用絵師の系譜・佐々木家

佐々木養郭惟照「蘇軾・李白図屏風」

江戸時代になると世情も落ち着き、町絵師も多く出たが、徳島藩・蜂須賀家は将軍家にならい狩野派の画人を御用絵師とした。御用絵師の家系で最も古いのは佐々木家で、元禄頃に始まったとみられる。佐々木家については成立書は残っていないが、作品や分限帳などから、断片的に名前が知られており、徳島県立博物館に収蔵されている森崎家資料には、佐々木家の絵師名を記した粉本が多数含まれている。しかし、各絵師についての詳細は不明な点が多く、同一人物が重複している可能性もある。

佐々木信之丞(不明-不明)ささき・のぶのじょう
兵庫県三原郡の観音寺に延宝6年の涅槃図、徳島市丈六寺に元禄8年の曳馬図絵馬を残している。これらの作品は町絵師的な画風を示しており、御用絵師であったという記録も今のところ見当たらない。

佐々木定之丞(不明-不明)ささき・さだのじょう
森崎家資料に、柿の木に猿図の粉本(元禄8年)を残しているが、詳細は不明。

佐々木信照(不明-不明)ささき・のぶてる
森崎家資料の粉本の中に、十六羅漢図(元禄10年)、探幽筆写名所山水図(元禄16年)、花鳥図(享保11年)などを残している。花鳥図屏風の粉本には、修理大夫様(蜂須賀吉武)から仰せ付けられ、御茶道中より承ったと記されており、徳島藩御用絵師であったことが分かる。

佐々木作之丞(不明-不明)ささき・さくのじょう
平嶋組絵図(享保15年)に佐々木信照とともに名前がみえる。

佐々木玄仲(中)寿信(1714-不明)ささき・げんちゅう・としのぶ
森崎家資料の粉本中に涅槃図(享保18年)を残している。正徳4年生まれ。

佐々木由仙常照(不明-不明)ささき・ゆうせん・つねてる
森崎家資料に、狩野安信筆三夕図の粉本(明和7年)を残している。

佐々木典照(不明-不明)ささき・みちてる
寛政2年に建立された栄川院典信筆塚の「碑陰門人姓名」に名前がある。また、森崎家資料中に「南天ニ ひよ鳥 典照下図」と記された粉本がある。

佐々木養郭惟照(不明-不明)ささき・ようかく・これてる
森崎家資料の中に、伝夏珪筆山水図などの複写(天明4年)を残している。また、栄川院典信筆塚の「碑陰門人姓名」に名前がある。作品に「関羽図」(徳島城博物館蔵)があり、「澤龍斎養郭藤原惟照図」の落款がある。天明・寛政期の人とみられ、矢野伊章と同時代に徳島冨田に住んでいたと伝わる。天保8年の伊川の富士を写したものが森崎家にあり、信照の家系と思われるが不明。般若院に涅槃像があったが昭和20年の戦災で焼失したという。

佐々木唯照(不明-不明)ささき・ただてる
森崎家資料中、「大和人形」の粉本を入れる袋(文化12年)の表に名前が記されている。

佐々木晴造(不明-不明)
藩の分限帳『徳島分無足以下分限帳』(文政11年)に、「三人絵師 佐々木晴造」とある。

佐々木忠兵衛信照(不明-不明)
森崎家資料の粉本に、狩野典信筆毘沙門像(天保8年)、狩野栄信筆松に富士・竹に雀・柳に燕図三幅対(天保8年)などを残している。

佐々木忠兵衛寿照(不明-不明)
森崎家資料の粉本中に、狩野古信筆鶏図(天保8年)、狩野養信筆寿老人図(天保9年)、紅葉山台徳院霊屋本殿天井の探幽筆飛天図(弘化2年)などを残している。

徳島(2)画人伝・INDEX

文献:阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑