下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれた鈴木賢二(1906-1987)は、地元の中学校卒業後に上京、川端画学校に入った。翌年には東京美術学校彫刻科に入学、高村光雲について木彫を学んだ。在学中からプロレタリア美術運動に関心を持ち、中野重治らがいた日本プロレタリア芸術連盟の淀橋合宿所に住み込み、プロレタリア劇場にも参加した。
昭和4年、卒業を控えた東京美術学校校内で軍事訓練反対のビラをまいて退学処分となり、同年結成された日本プロレタリア美術家同盟の書記長に就任。同志の山本宣治のデスマスクを制作してプロレタリア美術大展覧会に出品するなど精力的に活動し、「プロレタリア芸術」や「戦旗」などの雑誌に漫画や論文を発表した。
昭和8年の暮、プロレタリア美術運動への弾圧が日々厳しくなっていくなか、それを逃れて栃木に帰郷した。この時期には多くの彫塑作品を手がけている。昭和11年、白日会展や第一美術協会展に彫塑作品を出品、翌年には、帝展の改組に不満を持った第三部会(彫刻)の会員を中心として結成された「第三部会」(後に国風彫塑会と改称)の会員となった。ほかにも、工芸やエッチングなど多彩な分野への挑戦を試みている。
昭和21年、民主的運動母体となるべく結成された日本美術会の常任委員となり、真岡市出身の美術評論家・久保貞次郎らとともに、全国に先駆けて日本美術会北関東支部を結成した。委員長は置かず、幹事に新居広治、書記局を飯野農夫也、事務局は小口一郎がつとめ、やがてこの会が北関東版画運動の隆盛につながっていった。
政治的な問題を題材にした作品を世に問い、社会運動とともにあった版画家として、各地を巡って活動していた鈴木だったが、昭和39年、58歳の時に脳卒中で倒れ、栃木への帰郷を余儀なくされた。その後は病で自由を失った右手から、左手に彫刻刀を持ち替え、81歳で没するまで日本アンデパンダン展などに出品を続けた。
鈴木賢二(1906-1987)すずき・けんじ
明治39年栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)生まれ。大正13年栃木県立栃木中学校卒業、同年東京美術学校彫刻科に入学。昭和4年軍事訓練反対のビラを学内でまいたことにより退学。同年結成された日本プロレタリア美術家同盟の書記長になった。昭和7年ドイツの画家グロッスの影響を受け田原満の名前で漫画を描いた。翌年帰郷。昭和20年帝展改組を不満とする第三部(彫刻)の会員が集まって第三部会が結成され、以後同会に会員として出品した。昭和22年日本美術会北関東支部を結成。翌年日本美術会主催第1回日本アンデパンダン展に出品、以後17回展まで出品した。昭和24年日本版画運動協会を設立。昭和29年から33年まで益子に住み、陶芸、版画などを制作。一時東京に戻り、自由労働者をモデルに作品を制作したが、病のため帰郷、没するまで制作を続けた。昭和62年、81歳で死去した。
栃木(39)-画人伝・INDEX
文献:昭和の人と時代を描く-プロレタリア美術運動から戦後版画運動まで 鈴木賢二展、栃木県歴史人物事典