江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

創作版画運動の中心的役割をになった川上澄生

川上澄生「南蛮入津」栃木県立美術館蔵

横浜に生まれた川上澄生(1895-1972)は、高校在学中から詩や木版画に親しみ、当時の詩人や版画家などから多くの影響を受けた。特に木下杢太郎の『和泉屋染物店』に掲載された伊上凡骨の木版口絵に惹かれ、木版画作りに興味を抱くようになった。高校卒業後は、進路も決めずに毎日を過ごしていたが、翌年父の勧めもあり渡米、シアトルで看板描きをしたり、アラスカの鮭缶詰工場で働いたのち、23歳の時に帰国した。

大正10年、26歳で宇都宮中学校(現在の県立宇都宮高等学校)の英語教師として赴任、それ以来50年近くを宇都宮の地で暮らした。昼は教壇にたち、夜は版画作りという日々を過ごし、大正11年に第4回日本創作版画協会展(日本版画協会の前身)に初入選、それ以来本格的に版画制作に取り組むようになった。

その一方で、国画創作協会日本画部に作品を発表、同会日本画部解散後は、同人らと新樹会を結成、ついで国画会に作品を発表した。初期のカナダや北米の追想に始まり、疎開先の北海道で興味を持ったアイヌ、長年親しんだ栃木の風景や人々の暮らし、さらに南蛮、文明開化などと題材を広げ、自画自刻の創作版画の制作に励み、昭和初頭にピークを迎えた創作版画運動の中心的役割をになった。

川上澄生(1895-1972)かわかみ・すみお
明治28年横浜紅葉坂(現在の横浜市西区紅葉ケ丘)生まれ。本名は澄雄。青山学院高等科卒業後の大正6年にアメリカに渡り、カナダのヴィクトリア、シアトルを経て、翌年鮭缶詰製造人夫としてアラスカで働いた。その後、カナダ、北米のスケッチを携えて帰国。この経験が初期川上版画の原点となったといえる。大正10年栃木県立宇都宮中学校(現在の宇都宮高校)に英語教師として赴任。大正11年第4回日本創作版画協会展に初入選。昭和2年日本創作版画協会会員となった。中学校退職後は、友人の塚田泰三郎の協力で木活字による絵本の制作に取り組んだ。戦時中は北海道に疎開、南蛮、文明開化の主題に新たにアイヌをテーマとした主題が加わった。戦後は県立宇都宮女子高校の英語講師としてつとめるかたわら、明治の東京、横浜を回顧する作品や、南蛮調の作品をつくった。昭和47年、77歳で死去した。

栃木(37)-画人伝・INDEX

文献:創作版画の川上澄生、栃木県歴史人物事典、栃木県の美術、北関東の近代美術