岩崎鐸(1913-1988)は、東京上野の祖父の家で生まれ、小学校卒業後に両親のいる宇都宮に転居した。20歳の時に東京美術学校日本画科に入学、結城素明に師事して素明の研究会に参加した。研究会の主なメンバーには東山魁夷、加藤栄三、山田申吾らがいた。
岩崎の画風の形成に決定的な影響を与えたのは、在学中に受けた特別講座で知ったイタリア・ルネッサンスの画家・ボッティチェリだった。その後の岩崎の画風は、技術的には日本画でありながらも、西洋的あるいはキリスト教的な精神性にあふれたものとなっていった。
美術学校卒業後は、日本画の革新を目指して設立された新美術人協会の第1回展に出品、戦後は革新的日本画の出発点となった創造美術会に第1回展から出品、創造美術展を舞台にイタリアの初期ルネッサンス美術を忍ばせるフレスコ風日本画を出品した。
岩崎の画風は、44歳の時の外遊を契機にさらに転換していく。昭和32年に渡欧し、翌年までドイツ、イタリア、フランス、スペイン、アフリカ、アメリカを巡った。この旅で日本画の材質的脆弱さを痛感し、より堅固な素材を求めていくようになり、鉄やコンクリート、アルミなどで構成された抽象的なレリーフ作品にまで発展していく。
岩崎鐸(1913-1988)いわさき・たく
大正2年台東区東上野生まれ。本名は清之助。東京の祖父の家に生まれ、小学校卒業後は宇都宮に転居した。東京美術学校日本画科に在学中、矢代幸雄の西洋美術史の特別講座でイタリア・ルネッサンスの画家・ボッティチェリを知り、この出会いが岩崎の画風の形成に決定的な影響を与えることになる。また、洋画の勉強のため猪熊弦一郎の画室に通い、藤田嗣治、野田英夫、中西利雄、荻須高徳、佐藤敬、伊勢正義らと交流、数年後に猪熊から「鐸」の号をもらった。昭和13年東京美術学校日本画科を卒業。同年新美術人協会第1回展に出品、昭和23年第1回創造美術展出品、昭和26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会が発足したため同展に出品、会員となった。昭和32年渡欧したのを機に、ローマ、ニューヨークなどでも個展を開催し、画風は鉄、アクリルなどを素材にした抽象表現へと転換していった。昭和37年杉全直の紹介で抽象作家のグループ・アートクラブの会員となった。同クラブには、岡本太郎、難波田龍起、桂ゆきらがいた。昭和63年、74歳で死去した。
栃木(32)-画人伝・INDEX
文献:岩崎鐸-その軌跡-、栃木県歴史人物事典、栃木県の美術