江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

全国各地を放浪のすえ佐野に定住した南画家・王欽古

左:王欽古「蘭亭曲水図」
右:王欽古「楳花書屋図」

京都の医師の家に生まれた王欽古(1830-1905)は、小田海僊に師事し、師の画風を受けて南画山水を得意とした。はじめは海雲と号していたが、のちに中国の士大夫をきどって王欽古と号したという。江戸に出て諸家と交わったのち、遊歴の画家として全国各地を巡り放浪の旅に明け暮れた。

幕末のころ、37歳の時に下野国安蘇郡田沼村(現在の佐野市)の加藤家に養子として入り、以後加藤欽古と称して佐野に定住、画業に専念した。第1回内国絵画共進会では褒状を受け、その他にも日本美術協会など各種展覧会に出品し、腰塚藹岳、岡田蘇水ら地元の後身の指導にあたった。

王欽古(1830-1905)おう・きんこ
天保元年京都生まれ。医師・磯田文右衛門の二男。名は好直、字は子道、初号は海雲、のち王欽古と号した。小田海僊に師事した。江戸に出たのち、全国各地を遊歴した。慶応3年、下野国安蘇郡田沼村(現在の佐野市)の加藤孫右衛門家に養子として迎えられ娘トメと結婚。以後加藤欽古と称し、腰をすえ画業に専念した。明治15年第1回内国絵画共進会に出品し褒状を受けた。日本美術協会などに出品。門人に腰塚藹岳、岡田蘇水らがいる。明治38年、75歳で死去した。

腰塚藹岳(1869-1927)こしづか・あいがく
明治2年藤岡町城山生まれ。本名は滝一郎。幼いころから画を好み、藤岡尋常高等小学校の教員についたが21歳で辞し、田沼町の王欽古に師事した。2年後に実家に戻り再び藤岡尋常高等小学校の教員となり、そのかたわら南画を描いた。昭和2年、61歳で死去した。

岡田蘇水(1880-1942)おかだ・そすい
明治13年田沼町角町生まれ。本名は喜一郎。小見の岡田貞次郎の三男。はじめ王欽古に学び、のちに上京して佐竹永湖に師事した。明治40年東京勧業博覧会に出品。文展、帝展、日本美術協会展、明治絵画会展、日本画会展、日本南宗画会展などに出品した。昭和17年、63歳で死去した。

栃木(17)-画人伝・INDEX

文献:佐野の近代日本画 小堀鞆音と王欽古、栃木県歴史人物事典、栃木人-明治・大正・昭和に活躍した人びとたち、佐野市立吉澤記念美術館コレクション選2012、下野とちぎの民画-佐野掛地祝い絵図鑑