江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

狩野派の絵をよくした佐野藩主・堀田正衡

堀田正衡「山水図」栃木県立博物館蔵

下野の佐野藩六代藩主・堀田正敦(1758-1832)は、仙台藩主・伊達宗村の八男として生まれ、近江の堅田藩主・堀田正富の養子となり、天明6年に堅田藩主となった。文政9年に佐野に国替えとなり、以後明治4年の廃藩置県まで堀田佐野藩は続いた。

正敦は、寛政2年から幕府の若年寄を43年間つとめ、その間『寛政重修諸家譜』編さん総裁として業績を残した。国文学や和歌にすぐれ、水月の号で『水月詠藻』の歌集や『松前紀行』などの紀行文も著した。近世最大の鳥類図鑑『堀田禽譜』を編さんしたことでも知られている。

参考:近世最大の鳥類図譜『堀田禽譜』を編さんした堀田正敦

正敦の子・堀田正衡(1795-1854)は、天保3年に正敦の死去に伴い佐野藩七代藩主となった。家臣に西洋砲術を学ばせるなどの軍事訓練を強化し、藩校で洋学を取り入れるなど藩の近代化に貢献した。和歌、絵画にすぐれ、狩野元信の画を模写したという本格的な「山水図」(掲載作品)が残っている。

正衡の近習をつとめていた高橋由一は、のちに日本ではじめて本格的な洋画に取り組むことになるが、正衡からの影響が強いと思われる。

堀田正衡(1795-1854)ほった・まさひら
寛政7年生まれ。佐野藩七代藩主。六代藩主・堀田正敦の子。天保3年、父正敦の死去により家督を継いだ。天保5年に奏者番、天保7年からは幕府の若年寄となり7年間つとめた。嘉永7年、60歳で死去した。

栃木(7)-画人伝・INDEX

文献:堀田氏と佐野藩領、とちぎ美術探訪、栃木の美術