明治期になると、東京に出て学ぶ島根県出身の日本画家も多く出てくる。田中頼璋(1868-1940)は、はじめ萩に出て森寛斎に学んだが、のちに上京して川端玉章に師事した。明治・大正期を中心に活躍し、川端画学校の教授などをつとめた。写実に基づいた温和な色彩で構成された風景画が多く残っている。ほかに島根県出身の玉章門下としては、池田興雲(1876-1962)、田平玉華(1878-1923)、田平玉華(1878-1923)らがいる。次項に出てくる、東京美術学校日本画科を首席で卒業し、将来を嘱望されながらも39歳で早世した中原芳煙(1875-1915)も川端玉章に師事している。
田中頼璋(1868-1940)
慶応2年石見国木村生まれ。庄屋・田中助佐衛門の二男。本名は大治郎。別号に豊文、豊秋、芳州がある。13歳のころから父について漢書を学び、17歳の時に画家を志して萩に出て森寛斎に師事し、明治35年に上京して川端玉章に入門した。日本美術協会展で受賞を重ねる一方、巽画会審査員、日本画会評議員をつとめ、川端画学校の教授となった。明治40年文展が開催されると出品を続け、入賞、特選を重ね、旧派の実力者として活躍した。帝展の委員をつとめた。また、自宅に天然画塾を開くなど後進の指導にも尽力した。関東大震災後は広島に住み悠々自適の生活を送った。昭和15年、73歳で死去した。
池田興雲(1876-1962)
明治9年松江市雑賀町生まれ。本名は弘。松江修道館卒業後上京して川端玉章の画塾に入った。帰郷後、30年間図画教育に携わった。郷土画壇の長老として活躍した。昭和37年、87歳で死去した。
田平玉華(1878-1923)
明治11年大田市生まれ。大谷津三郎の三男。本名は善蔵。20歳の時に長久町延里の田平常二郎の養子となった。明治32年大田尋常高等小学校の教員となったが、翌年画家を志して上京、川端玉章に入門した。その翌年には日本美術協会展で受賞し、その後も各展覧会で受賞を重ねた。雪景を最も得意とした。東京で10年ほど暮らしたのち、健康を害して帰郷、各地を歩きながら制作に励んだ。大正12年、再上京の夢を抱きつつ45歳で死去した。
三浦玉亭(1881-1926)
明治14年松江生まれ。三浦正祐の三男。はじめ狩野派を学んだが、のちに川端玉章に学んでからは山水画を得意とした。大正15年、死去した。
釈台鞍(1881-1959)
明治14年安来市生まれ。繭仲買商・天野宗右衛門の長男。本名は天野熊市。父の宗右衛門の弟・大三郎は陶芸家・河井寛次郎の父。22歳の時に京都の望月玉泉に入門して玉珖と号した。のちに川端玉章に師事した。昭和34年、78歳で死去した。
内藤玉青(1890-1911)
明治13年松江市天神町生まれ。内藤甚蔵の子。川端玉章に学び、のちに東京美術学校に入学したが、卒業前の明治44年、22歳で死去した。
島根(14)-画人伝・INDEX
文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典