江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

天野嗽石と松江の門人

松江に住んでいた天野嗽石(1837-不明)は、小田海僊の門人・近藤桃江に師事し、のちに金子雪操に学んだ。京都、山陽、四国、九州などを遊歴し、四国松山にも一時住んだとされるが、没地などは不明である。松江の門人としては、松江の名士である佐藤愛山(1845-1920)や岡崎雲隣(1850-1919)らが壮年になって入門し、南画を学んでいる。

天野嗽石(1837-不明)
天保8年生まれ。松江宇賀明王院の二男。松江灘町に住んでいた。名は静、字は修郷、初号は燕石、別号に松湖、墨魔居士がある。近藤桃江の門に入り、のちに金子雪操に学んだ。花鳥画を得意とし、明治17年、第2回内国絵画共進会に山水、花鳥を出品している。のちに京都、山陽、四国、九州などを遊歴し、四国松山に一時住んだとされるが、没地などは不明である。

近藤桃江(不明-不明)
名は晃、別号に橘僊がある。松江市天神町生まれ。小田海僊に師事した。のちに長崎の熊斐の画風を慕って長崎に行き門人となった。

中野南涯(1822-1890)
文政5年生まれ。通称は惣造。安来市荒島町の人。天野嗽石に師事した。明治23年、69歳で死去した。

佐藤愛山(1845-1920)
弘化2年松江市白潟本町生まれ。通称は喜八郎、諱は長経、字は伯徳。別号に静古堂がある。明治23年頃に出雲地主農談会を創設して会長となり、のちに貴族院議員に任命された。茶事に通じ、壮年になって天野嗽石の門に入って南画を学び、山水梅花を得意とした。晩年は世事を離れ、画業に専念した。大正9年、76歳で死去した。

岡崎雲隣(1850-1919)
嘉永3年松江市生まれ。通称は運兵衛、字は真清。公共事業に尽力し、明治15年には山陰における最初の新聞だった山陰新聞を勝部氏と創刊した。衆議院議員を数回つとめている。壮年になって天野嗽石の門に入って南画を学び、静渚と号し、のちに長田雲堂の来遊に際してその門に入り雲隣と改号した。山水竹石を得意とした。晩年は政界から退き、画業に専念した。大正8年、70歳で死去した。

金山鴎隣(1863-不明)
文久3年生まれ。通称は常太郎。松江の人。天野嗽石に師事したのち、寺西易堂の娘と結婚したがまもなく離婚し帰郷した。のちに米国に渡って絵画を描いて成功したといわれている。

鈴木雪鱸(不明-不明)
松江の人。天野嗽石に師事した。

島根(13)-画人伝・INDEX

文献:島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典