江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

出雲地方に南画鑑賞の土壌を培った田能村直入と出雲の門人

田能村直入「梅花書屋図」白潟天満宮蔵

江戸後期になると、出雲・石見地方でも文人趣味の機運が起こり、この地を訪れる南画家を歓心を持って迎え、揮毫を依頼したり、漢詩や南画の指導を受けたりした。尾張の南画家・中林竹溪(1816-1867)は、天保年間に大田市の恒町家に一年余り逗留し、恒町家所蔵の絵画を見聞し、また求めに応じて作品を残している。幕末の三筆として知られる貫名海屋(1778-1863)は、弘化3年から翌年にかけ出雲・石見地方を遊歴し、出雲では知井宮の山本家、石見では宅野の古和家、藤間家や大田の恒松家などに逗留し作品を残している。

明治に入ると、田能村直入(1814-1907)が出雲地方を訪れている。直入は、吉田村の田部家、宍道町の木幡家、横田町の絲原家、仁多町の桜井家など、出雲の名家を歴訪し、この間に出雲の名勝、旧蹟を見聞し作品を残した。中央画壇ですでに著名だった直入を、出雲地方の数奇者は歓迎し、競って画法の指導を受けたという。直入の出雲における足跡は大きく、出雲地方に南画鑑賞の土壌を培ったといえる。

田能村直入(1814-1907)
文化11年豊後国直入郡竹田生まれ。岡藩士・三宮利助の三男。幼名は松太、のちに伝太と改名した。名は癡、字は顧絶。別号に小虎、忘斎、幽谷斎、布施庵、花下直入、竹翁居士、笠翁、小虎散人、青湾漁老、青椀、直入山樵、画仙堂などがある。9歳の時に田能村竹田の門に入り、竹田に見込まれて養子となり田能村姓を継いだ。明治元年京都に移り、明治11年の京都府画学校設立に参加、校長をつとめた。明治24年には南宗画学校を設立し、南画家の育成につとめた。明治29年富岡鉄斎らと日本南画協会を設立、近代京都南画壇の重鎮として活躍した。明治40年、94歳で死去した。

室田湖山(1841-1889)
天保12年生まれ。通称は竹次郎。別号に三楽、東崗がある。松江市内中原町に住んでいた。はじめは古市金峨に師事したが、田能村直入が来遊するとその門に入り、南画に転じた。八雲塗の創始者・坂田平一の作品の図案を作り、また下絵も描いた。八雲塗の創作に最も関係の深い画工だった。明治22年、49歳で死去した。

安部枕山(1851-1911)
嘉永4年生まれ。通称は由左衛門、旧姓は松本。八束郡八束町江島の人。はじめ門脇笛斎、浅井柳塘に学んだが、田能村直入が来遊するとその門に入り、直入に随行して畿内、山陰道を遊歴した。山水を得意とした。明治44年、61歳で死去した。

兼本春篁(1856-1926)
安政3年松江市外中原町生まれ。田能村直入が来遊するとすぐにその門に入り、南画を学んだ。のちに京都北町に移り住んだ。大正15年、72歳で死去した。

福本松鄰(1858-1937)
安政5年安来市荒島町久白生まれ。吉村佐平次の二男で、明治6年荒島町の福本家の養子となった。佐々木蕉雨の影響で画に興味を持ち、田能村直入が来遊した際に入門し、随行して京都に出て2、3年修業した。晩年は茶室の一室をアトリエにして作画を行なった。書画骨董の鑑定も行なった。昭和12年、79歳で死去した。

本田直針(不明-不明)
通称は佐五郎。別号に雲溪、岫雲などがある。田能村直入に師事した。

島根(11)-画人伝・INDEX

文献:島根の近世絵画展島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典