出雲地方には白隠慧鶴禅師(1685-1768)の筆による書画がいくつか伝来している。松江市の天倫寺に伝わる「出山釈迦図」「大応・大燈・関山国師図」などで、いずれも白隠の法脈を持って請来されたものと考えられる。また、仁多町の蔭涼寺にも「辺微意知語」が伝わっているが、これは蔭涼寺の住職が白隠法弟であったことにより請来されたとされる。
宝暦5年には池大雅(1723-1776)が出雲を訪れている。これもまた、白隠法弟との縁によるもので、白隠禅師に参禅した大雅が、白隠門下の高僧として知られる松江の天倫寺住職・円桂祖純と簸川の永徳寺住職・葦津慧隆の招きにより来遊したと考えられる。大雅の来遊は3度にわたるとみられ、天倫寺や永徳寺に寄宿し、この地方に比較的多くの作品を残している。
白隠同様に諸国を遍歴した伊勢出身の禅僧・風外本高(1779-1847)も、白隠禅師の足跡を慕って出雲の地を訪れている。風外は、大雅と縁のある簸川の勝部家を訪れて同家に伝わる大雅作品に触れたことをきっかけに、大雅に私淑傾倒し、南画家に転じることとなった。風外の出雲遊歴は、少なからず土地の画家に影響を与えている。
風外に学び、最も名を高めたのは三刀屋町出身の横山雲南(1813-1880)である。雲南ははじめ堀江友声に学んだが、出雲逗留中の風外に師事してから南画家を志すようになり、京都や江戸、そして伊勢にまで足を運んで絵筆をとった。黄仲祥の別号でも知られており、門人も多い。
横山雲南(1813-1880)
文化10年生まれ。通称は祥助。別号に黄仲祥、石痴道人、奇巌などがある。父の医師・宗甫について儒学を修めた。また、易学、彫刻、詩書、歌をよくした。画は堀江友声の門に入って学んだが、たまたま風外禅師が来遊した際に画法を習い、南画に転じた。天保9年に京都に出て貫名海屋の門に入った。天保14年に帰郷したが、まもなく江戸に遊び、椿椿山、松岡環翠、福田鳴鵞らと交遊した。安政6年に江戸から京都に行き、山水画家として称賛された。万延元年に帰郷し、明治3年に再び上京、明治13年、68歳で死去した。
勝部其峰(1823-1881)
文政6年生まれ。名は景浜、字は芳光。横山雲南、浅井柳塘について学び、京都に出て上竜について美人画を学んだ。明治14年、59歳で死去した。
永瀬雲山(1830-1892)
天保元年加茂町砂子原生まれ。豪農・永瀬丈左衛門の二男。幼名は辰次郎。別号に陶陶斎、耕谷などがある。堀江友声の門に入り、上代英彦と同門だった。のちに横山雲南の画風を模して南画に転じた。諸国を遊歴し足跡は京都から長崎に及んだが、晩年は今市町八雲山に住んだ。明治25年、63歳で死去した。
福庭南隅(1844-1918)
弘化元年生まれ。飯石郡三刀屋町の人。通称は義三郎。別号に刕斎、洲屋などがある。横山雲南に学び南画をはじめ、書も巧みだった。大正7年、75歳で死去した。
儀満暢園(1849-1926)
嘉永2年生まれ。平田の人。通称は晋右衛門、諱は知信。初号は表谷、別号に頑暢がある。はじめ横山雲南に学び、のちに浅井柳塘の門に入った。大正15年、78歳で死去した。
錦織竹香(1854-1945)
安政元年簸川町生まれ。錦織錦江の長女。幼名は久美。島根県女師教諭。奈良女高師教授をつとめるなど、終生女子教育に尽力した。画ははじめ横山雲南・天野嗽石に学び、のちに海屋門下の正林葭陽に私淑した。特に竹を得意としたので「竹香」と号し、本名とした。退職後帰郷した。昭和20年、92歳で死去した。
島根(10)-画人伝・INDEX