沢宏靱(1905-1982)は、滋賀県坂田郡長浜町神戸(現在の長浜市)に生まれた。15歳の時に京都に出て西山翠嶂(参考)の内弟子となり、昭和6年に第12回帝展で初入選し、その後も3回連続して入選を果たした。昭和12年に始まった新文展でも第1回展から6回展まで連続で入選し、昭和16年の第6回文展で特選となった。
昭和23年には新しい日本画の創造を目指して結成された創造美術に参加し、秋野不矩(参考)、上村松篁、奥村厚一、加藤栄三、菊池隆志(参考)、高橋周桑、橋本明治(参考)、広田多津(参考)、福田豊四郎、向井久万、山本丘人(参考)、吉岡堅二とともに創立会員となった。その後、創造美術は、新制作協会日本画部、創画会と名称を変えて進展したが、宏靱は昭和57年に没するまで同会に会員として出品を続けた。
はじめ忠実な写生をふまえた抒情的な風景画を得意としたが、昭和30年頃から全国の海岸風景を構築的に重厚な造形で描くようになった。昭和46年から比叡山麓の比叡平に移り住み、昭和50年代からは雄大な自然現象をとらえて、幻想的、象徴的な画風を展開したが、最晩年には伊吹山など故郷である湖北の冬の風景を抒情的に描いた。
沢宏靱(1905-1982)さわ・こうじん
明治38年滋賀県坂田郡長浜町神戸(現在の長浜市)生まれ。本名は日露支(ひろし)。大正7年長浜尋常高等学校卒業。大正9年京都に出て西山翠嶂に師事。昭和6年第12回帝展で初入選し、以後帝展に3回連続で入選した。昭和7年同門の秋野不矩と結婚(のちに離婚)。昭和9年京都市立絵画専門学校専科を修了。昭和12年第1回新文展に入選し、以後昭和18年まで出品した。昭和15年大毎東日展で特選。昭和18年第6回文展で特選となり、野間美術奨励賞を受賞。昭和23年創造美術の結成に参加し、以後同展に出品した。昭和57年、77歳で死去した。
滋賀(50)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、滋賀の日本画