江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

70歳過ぎてから渡仏しパリ風景で好評を得た鷲田新太

鷲田新太「パリの裏街(メデジュール街)」

鷲田新太(1900-1977)は、滋賀県野洲郡(現在の野洲市)に生まれた。上京して川端洋画研究所に学び、はじめ春陽展に出品し、安井曾太郎(参考)に師事して新世紀展や二科展に出品した。その後、美術雑誌『美之国』の編集や川端龍子主宰の青龍社の運営事務をしたりしていたが、絵筆はとらず、美術評論を書いていた。

戦後再び創作を開始し、光陽会に出品して会員となり、代表もつとめた。70歳過ぎてから意欲的に絵筆をとり、71歳で初の個展を東京の下村画廊、大阪のフジヰ画廊で開催し、その翌年から渡仏して制作し、パリ風景で好評を得た。

鷲田新太(1900-1977)わしだ・あらた
明治33年滋賀県野洲郡(現在の野洲市)生まれ。本名は新一。大正13年上京し川端洋画研究所に入所した。昭和2年第5回春陽会展に初入選、昭和8安井曾太郎に師事、同年新世紀美術協会展に出品、第21回二科展に入選した。昭和10年美術雑誌『美之国』の編集員(筆名は篠原巣一郎)となり編集に携わった。昭和11年から川端龍子主宰の青龍社の運営事務を担当した。戦後は、昭和32年に光陽会会員となり、昭和43年第16回光陽会展で文部大臣奨励賞、美術報知賞を受賞、同年光陽会代表となった。昭和47年初の個展を東京の下村画廊と大阪のフジヰ画廊で開催し、翌年渡仏し約1年間パリで制作した。昭和52年、78歳で死去した。

滋賀(47)-画人伝・INDEX

文献:滋賀の洋画