江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

京都紫野大徳寺瑞峯院に大画面の襖絵を残した野添平米

野添平米「奥山の朝」滋賀県立美術館蔵

野添平米(1895-1980)は、滋賀県栗太郎下笠村(現在の草津市下笠町)の農家に生まれた。18歳の時に画家を志して京都に出て菊池芳文の門に入り、芳文没後は芳文の娘婿にあたる菊池契月に師事した。

24歳の時に帝展に初入選し、その後も帝展で入選を重ねた。山や海を描いた作品が多く、その題材を求めて日本各地の景勝地を訪ねた。昭和7年には朝鮮を旅行し、朝鮮半島北部の名勝・金剛山を題材にした「奥山の朝」(掲載作品)を制作し、その年の第13回帝展に出品して特選を得た。その後もたびたび金剛山を訪れている。

戦後は、京都市美術展覧会(京展)への出品を中心に活動し、昭和33年には、その3年前に没した師の契月の遺志を継ぎ、門下生とともに京都御所小御所の襖絵を手掛けた。また、昭和35年には京都紫野大徳寺瑞峯院の依頼により、方丈の襖絵70枚に水墨画「金剛山図」を描いた。この襖絵は画面60メートルにも及ぶもので、平米の記念碑的作品となった。

野添平米(1895-1980)のぞえ・へいべい
明治28年滋賀県栗太郎下笠村(現在の草津市下笠町)生まれ。本名は次郎。大正2年京都で菊池芳文に師事し、大正7年の芳文没後は菊池契月に師事した。大正8年第1回帝展に初入選し、翌年からも入選を重ね、昭和7年第13回帝展で特選となった。同年から昭和9年にかけて朝鮮に写生旅行をした。その後も帝展、新文展に出品した。昭和22年第1回滋賀県美術展覧会の開催に際して準備委員会の段階から携わり審査員もつとめ、最初期の県展の振興に貢献した。昭和33年師の契月の遺志を継いで門下生と京都御所小御所の襖絵を描いた。昭和35年京都紫野大徳寺瑞峯院からの依頼により襖絵に金剛山を描いた。昭和53年滋賀県立琵琶湖文化館で回顧展が開催された。昭和55年、85歳で死去した。

滋賀(40)-画人伝・INDEX

文献:近江の画人、滋賀の日本画