放浪の画人で「近江蕪村」と称された浄土宗の僧・横井金谷(1761-1832)の生涯を知るうえで参考になるのが、金谷が自ら著した『金谷上人御一代記』である。同書は、挿画入りで面白おかしくつづられており、創作部分も否定できず、忠実な自伝というよりも私小説に近いとされている。
史料をもとに、『金谷上人御一代記』を参考にしながら金谷の生涯を探ると、金谷は近江国栗太郡下笠村(現在の草津市下笠町)に生まれ、9歳の時に摂津国北野村(現在の大阪市中区)の宗金寺で住職をしていた母方の叔父にあたる円応和尚を頼って修行に入っている。宗金寺が浄土宗の寺だったことから、金谷と浄土宗の関わりはここから始まる。
一代記によると、悪戯が過ぎたため数年にして寺を追い出され、それが放浪の旅の始まりになったという。大坂を出た金谷は、故郷を通り越して江戸に出て芝の増上寺で修行研鑽に励んだが、悪所通いが露呈してまた寺を追われ、その後は上総、下総、東海道を流浪し、18歳で故郷の下笠村に帰った。
故郷に帰った金谷は、伏見の月光庵にいた高僧・寂門上人のところに身を寄せ、ここを拠点に2、3年の間猛烈に修学につとめ、21歳の時に北野金谷山極楽寺の住職に迎えられ、これを機に「金谷」と名乗るようになった。
ところが、修行に熱心に取り組む一方で、遊所に出かけたり、浄瑠璃に熱を上げたり、尺八を吹きながら洛中洛外を行脚したり、看板娘のいる賭的にはまって賭博の輪に連なるなど悪行がやまず、檀家からの苦情もあり、またしても寺を追われ、放浪の旅に出る。
30代後半から20数年間は名古屋を主な住居としながら、43歳で山伏となり放浪の旅を続け、清貧の生活を支えるために絵を描いたと思われる。
金谷の画業には与謝蕪村の影響が強く表れており、紀楳亭とともに「近江蕪村」と呼ばれている。しかし、直接蕪村に学んだ楳亭に対し、金谷は私淑して蕪村画を学んだと考えられており、一代記にも蕪村に関しての記述は見られない。
放浪に明け暮れた金谷も、63歳の時に故郷に帰り、比叡山の麓に草庵を建て、「常楽庵」と命名して以後はそこで過ごした。そして、「余の画を評するは宜しく死後に於てすべし」との言葉を残して72歳でこの地で没した。
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横井金谷(1761-1832)よこい・きんこく
宝暦11年近江国栗太郡下笠村(現在の草津市下笠町)生まれ。浄土宗の僧。幼名は早松、法名は妙憧。別号に蝙蝠道人、斧叟がある。金谷上人、金谷老人とも呼ばれた。21歳で京都・金谷山極楽寺の住職となり、その後は放浪の旅で過ごしたのち名古屋に住んだ。画は与謝蕪村に私淑した。自らの放浪と奇行の様子を書いた『金谷上人御一代記』を残した。金谷焼とよばれる陶器もつくった。天保3年、72歳で死去した。
滋賀(10)-画人伝・INDEX
文献:旅する画僧・金谷 近江が生んだ奇才、草津の文人画家 横井金谷、近江湖東・湖南の画人たち、近江の画人、近江の画人たち、近江の文人画家