江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

湖国が生んだ桃山時代を代表する武人画家・海北友松

海北友松「琴棋書画図屏風」(部分)東京国立博物館

海北友松(1533-1615)は、近江国(現在の滋賀県)坂田郡の武士の家に生まれた。父の海北綱親は近江浅井家の重臣六家の一人で、浅井長政の祖父・亮政以来「家中第一の剛の者」とうたわれた猛者で、浅井長政、斎藤利三、豊臣秀吉ら諸将の軍法の師とも伝わっている。

友松の画歴については不明な点が多いが、幼い頃に京都の東福寺に出家し、この時期に狩野派の狩野元信、もしくは狩野永徳に学んだと考えられている。その後、南宋の画家梁楷らの影響も受けたと思われる。

天正元年、友松が41歳の時、織田信長の小谷城攻略によって浅井家は滅亡し、海北家も友松を残して家主、兄弟たちが戦士してしまったため、友松は武門としての海北家の再興をはかり還俗して武芸に励んだが、その悲願は果たせず、やがて画の才能を豊臣秀吉に認められ、60歳代以降は画人として活躍した。

同時代を代表する武人画家である長谷川等伯雲谷等顔参考)、岩佐又兵衛、狩野山楽らが工房を持ち組織的な絵画活動を行なっていたのに対し、友松は徹底した職業画人にはなりきれず、孤高の画人として特異性を発揮し、晩年には公家や宮家との交流によりさらに画域を広げ、83歳で没する直前まで絵筆を振るった。

海北友松(1533-1615)かいほう・ゆうしょう
天文2年近江生まれ。海北綱親の子。名は紹益。京都の東福寺で出家したが、主家浅井家滅亡ののちに41歳で還俗し、武門海北家の再興をはかったが果たせず、画家の道をあゆんだ。画は狩野元信、もしくは狩野永徳に学んだとされ、南宋の画家梁楷らの影響を受けている。建仁寺の障壁画など多くの障屏画を制作した。慶長20年、83歳で死去した。

滋賀(01)-画人伝・INDEX

文献:海北友松 湖国が生んだ桃山時代の巨匠、近江の画人たち